岩手県奥州市衣川区松下

震災前取材

 

延暦21年(802)、坂上田村麻呂の時代に胆沢城が築かれ、東国の俘囚4000人が胆沢の柵戸に配置された。衣川関はこの頃に設けられたと伝えられる。衣川は胆沢の鎮守府が管轄する胆沢郡と、多賀国府が管轄する磐井郡の境界にあたる地であった。当初は胆沢郡の最南端の宝塔谷地にあったともいうが、永承元年(1045)の頃、奥六郡を支配していた安倍頼義が、本拠を衣川の安倍館からこの地域に移すと同時に、関所もこの地に移したという。

この地の西は沢になり、北は急峻な絶壁が延々と続き、東は衣川の本流で、ここから下流は渡渉不能だった。「件の関は素より隘路にして険阻なり。 こう函の固めは一人嶮を拒めば万夫も進む能わず」という古文書の表現と一致している。

衣川関は、枕詞ともなっており、多くの歌に詠まれている。

おさふれど 涙でさらに とどまらぬ 衣の関に あらぬ袂は      …西行
わかるとも 衣の関の なかりせば 袖ぬれましや 都ながらも   …中将実方