岩手県盛岡市北山二丁目…聖寿寺

震災前取材

盛岡藩主南部氏の廟所は、主にその菩提寺である東禅寺と聖寿寺にある。この聖寿寺は、南部氏の初代光行の菩提を弔うために建立されたもので、寺内には、初代光行の墓のほかに歴代の盛岡藩主の墓がある。
南部氏は、清和源氏武田氏の流れで、新羅三郎義光の末裔の加賀美次郎遠光の三男光行をもって祖とし、甲斐の南部邑より興ったとされる。光行は、父とともに鎌倉幕府の創業に尽し、その後の文治5年(1189)の奥州征伐の功により糠部に所領を得た。

建久2年(1191)、光行は八戸から馬淵川を遡り三戸に入り、平ヶ崎城を築き地頭代を置いたと伝えられる。光行には六人の男子があり、次男の実光が宗家を継ぎ、他は一戸氏や八戸南部氏、七戸氏、九戸氏などの祖となった。実光は、承久元年(1219)に一族を率いて、本格的に糠部に下向したとされる。

南北朝期になると、甲斐にあった波木井南部師行は奥州に下向し、北畠顕家に属し八戸に根城を築き、陸奥国代として惣領家の三戸南部氏をしのぐ勢いをみせるようになった。しかしそれも南朝の衰退により、結局は三戸南部氏が南部氏の宗主権を掌握し、八戸南部氏は八戸氏を称し、以後、南部氏の指揮下に入った。

その後南部氏は、南部守行、義政時代には、秋田仙北地方に進出し、秋田湊の安東氏らと争い、永享4年(1432)には大軍で秋田、仙北地方を襲い、秋田、仙北地方の大半を領有した。また三陸の大槌地方も攻略し、勢力を飛躍的に拡大した。

南部光政のときの康正2年(1456)、安東氏が出羽より南部境に侵攻、光政は葛西氏の救援を得て安東勢を撃退したが、次第に三戸南部氏は衰退の色をみせはじめた。また、南部氏一族の金沢右京亮が支配していた仙北地方では、寛正年間(1460~65)には小野寺氏を主体とする出羽勢の反撃が始まり、応仁2年(1468)に至り、南部氏は仙北支配を断念した。この南部氏の一族として仙北の支配にあたった金沢右京亮は、のちの津軽氏の祖であるといわれている。

それでも、南部信時により南部氏はふたたび隆盛期を迎え、津軽を平定し、岩手地方の平定にも力を尽した。その子の南部安信のときの大永4年(1524)、安信は津軽地方の反乱を平定し、浪岡氏を支配下におき、次弟の石川高信を津軽方面の総司令官とし、三弟長義を領内の布石として浅水城に、四弟信房を斯波氏の備えとして石亀城に、末弟秀範を西の安東氏に対抗させ毛馬内城に置き、三戸南部一族による領内支配を確立した。

そして、大永7年(1521)には、北上をねらう和賀氏と戦い勝利を得、さらに南下し、斯波、稗貫、和賀、戸沢氏らと対立した。安信の跡を継いだ晴政は、乱世の武将として戦略戦術にすぐれ、果敢な軍事行動をもって周辺の諸豪族を攻略して支配地を拡大していった。しかし、津軽の独立や、九戸の反乱など、一族間に紛争を抱えるようになり、また晴政には男子がいなかったために、石川高信の男子の信直を養子としていたが、晴政には遅く実子が生まれ、これが後継争いになっていった。

晴政は信直を除こうと暗殺をはかるなど、信直と対立していった。信直は晴政の長女を室としていたが、室が死去したこともあって、晴政の嗣子たる立場を辞して自領に戻った。晴政は信直の謀反を恐れ、信直を殺そうとしたが果たせず、その後晴政は病死し、家督を継いだ晴政実子の晴継もほどなく病死した。

この晴政と晴継の相次ぐ死は、一連の後継争いとは恐らくは関係があるもので、信直やその周辺の者による暗殺と考えるのが妥当だろう。晴政と晴継の後継をめぐっては、南部一族には、九戸政実の実弟の実親を推す空気が強かった。しかし、一族の一人の北信愛が強硬に抵抗し、ひそかに八戸政栄の協力を得て、信直を三戸城に招じ入れ、強引に信直を後継とした。この家督争いは、南部氏に修復しがたい家中分裂をもたらす結果となり、その後の九戸の乱につながっていく。

南部宗家を相続した信直のまえには、一族の抗争をはじめ、津軽地方の反乱、出羽の秋田実季への対応、北上川下流地域の不安定など課題が山積していた。このような状況の中で信直は、中央権力者との関係を模索し接近していった。

織田信長の死後、天下は豊臣秀吉が握り、天正14年(1586)、戦国大名の私戦を全面的に禁じる「全国惣無事令」が発せられた。九戸政実や津軽の大浦為信も秀吉に接近をはかろうとする中、信直は秀吉のみならず前田利家ら秀吉側近にも接触し、豊臣政権との連携に成功した。

天正18年(1590)、秀吉の小田原討伐の際には、領内では九戸政実の反抗、津軽地方の大浦為信の反乱に手こずっていたが、八戸氏に領内をまかせ小田原に参陣し、糠部、閇伊、岩手、鹿角、紫波の南部五郡安堵の朱印状を受領した。しかし、大浦為信も豊臣政権下の大名としてその立場を築きあげ、津軽は大浦為信が領することになり、その後も長く南部氏と津軽氏の軋轢を生むことになる。

秀吉は奥州仕置を行い、奥州は新しい支配体制のもとに統一された。しかし、旧大名や、旧領主の家臣たちは激しい抵抗を行い、各地に一揆が続発した。このような状況の中で、九戸政実は南部氏打倒を決意し、天正19年(1591)、他の南部一族の櫛引氏、七戸氏、久慈氏らの勢力を結集して蜂起した。九戸勢の勢いは強烈で、信直は三戸城に追い詰められ秀吉に救援を求め、秀吉は九戸の乱を惣無事令に違背するものとして奥州仕置軍を送り、これを誅伐した。

九戸勢の反乱を制した信直は、中央政権との接近を深めながら、周辺諸氏を討ち、岩手、志和、稗貫、和賀、閉伊の支配を確かなものにし、慶長4年(1599)没した。

信直のあとを継いだ南部利直は、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏救援のため山形へ出兵したが、その間に和賀氏や稗貫氏、阿曽沼氏らが蜂起、急遽帰国してこれらを討伐し領内の静謐につとめた。

利直は、領内各所での乱を収束させると藩権力の集中化をはかり、不安定な要素を持つ在地性の強い新参上級家臣を排除する方針でのぞみ、浄法寺、岩清水、大槌らの諸氏を処罰や追放の名目で整理、南部氏の一門、一族、譜代の家臣を中心とした体制を整えた。そして、父信直の遺志をついで三戸より盛岡に居を移して盛岡城を築き、近世大名南部氏を確立した。