岩手県北上市岩崎

2012/07/12取材

 

この地の近くにはかつて岩崎城があり、和賀忠親が一揆を起こし立てこもった城であり、鈴木重信は、和賀勢に助勢した伊達の重臣白石宗直の侍大将である。

この地はかつては和賀氏が治めていたが、和賀氏は天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原合戦に参陣しなかったため、奥州仕置きにより所領を没収された。これに対して和賀の当主和賀義忠らが反発して蜂起したが鎮圧され、義忠も横死し、和賀氏領は南部氏に与えられた。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、伊達領に匿われていた和賀義忠の嫡男の忠親らが、伊達氏の支援を受け、大迫氏とともに一揆を起こし、かつての和賀氏の本拠城の花巻城を攻めたが攻めきれず、また関ヶ原の戦いの早い決着で一揆勢は伊達政宗に見捨てられ、岩崎城に退き籠城し孤立した。

同年12月、岩崎城は南部勢により包囲され攻められたが頑強に抵抗し持ちこたえ、冬の寒さもあり南部勢は一旦兵を退き、翌慶長6年(1601)3月に、再度攻撃を受けた。

このとき、和賀忠親の盟友だった白石宗直は、伊達政宗から手を引くように命じられていたにもかかわらず、自ずから槍をとって岩崎に救出に向かい、夏油川付近で戦った。

侍大将の鈴木重信は、岩崎城に兵糧米を入れようと陣頭に立ち、押し寄せる敵を散々に打ち破ったが、夏油川での南部の武将の富沢日向との一騎打ちで壮絶な最期を遂げた。享年43歳だった。

岩崎城は強風の日に火攻めにされ落城し、和賀忠親は伊達領に逃れたが、その後自害した。

延享元年(1744)、岩崎の人々は、和賀氏のために死をも恐れず戦った鈴木将監重信の恩義に報いたいと、塚を築き墓碑を建立したと伝えられる。