岩手県二戸市浄法寺町

2012/11/05取材

別名:小幡館

安比川左岸の、谷を塞ぐように南東に張り出した、比高25mほどの丘陵上に築かれており、東西約350m、南北約700mの広大な城域を持つ平山城である。八幡館、大館、新城館など、5つの郭から成り立っている。

内部は東西に延びる2条の堀と、南北に延びる1条の堀で仕切られた大規模な多館式城館である。大館は東西約100m、南北約80m、八幡館は東西約300m、南北約150m、新城館は東西約250m、南北約100mほどで、どの郭も1城ができるほどの巨大な平場になっている。各郭は堀で仕切られ、堀の幅は10~15m、深さは4~10mほどあり、一部は二重堀になっている。

この地は、安比川沿いに二戸と鹿角を繋ぐ鹿角街道を塞ぐ丘陵上に位置し、日常居館であるとともに、交通の要衝を扼す機能があったものと思われる。

築城時期は不明であるが、城主の浄法寺氏は、鎌倉御家人畠山氏の庶流と伝えられる。源頼朝の奥州藤原攻めの際の軍功により、畠山重忠の弟重宗に陸奥二戸郡が与えられた。

入部の時期など詳細は定かではないが、一説には元久2年(1205)、畠山重忠とその子重保、重秀が鎌倉幕府に対して謀反を企てたとして誅殺され、出家していた三男重慶が難を逃れて、浄法寺に下向し土着したと伝えられる。また一説には、重宗の嫡子が早世し嗣子がなかったため、鎌倉浄法寺で出家していた重慶が還俗して重宗の跡目を継いだとも伝えられる。

室町期の浄法寺氏の仔細な事績は不明であるが、安比川流域に松岡、田山、大森氏等の庶流を配し勢力を拡大し、南下する三戸南部氏とも関係を持ちながら、独立した在地勢力としてこの地を支配したようだ。

天正19年(1591)の九戸の乱では、浄法寺修理重安は当初日和見を決め込んでいたが、南部信直が九戸方の一戸城を攻略し、さらに豊臣政権の奥州仕置軍が到着すると南部信直方に与して、姉帯城、根曽利城攻めに参陣した。浄法寺修理は南部氏から5千石を宛がわれ、外様領主として南部氏の家臣団に組み込まれ、慶長2年(1597)には、盛岡城の普請奉行に任ぜられている。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際に南部利直が最上救援の為出陣中に「和賀の乱」が勃発し、重安の子重好は乱鎮圧のため和賀岩崎城へ出陣した。しかしその陣中に勝手に陣を引き払い三戸へ戻ったことが軍律違反とされ、慶長8年(1603)浄法寺氏は改易処分となり浄法寺氏宗家は廃絶した。

1 thought on “浄法寺城跡

  1. 茨城県の田山利行と申します。田山姓は浄法寺氏から出たと聞いています。そこで初期の田山氏が使用した家紋をご教授頂きたい。
    茨城県では、田山姓で30種類の家紋が使用されています。電話帳から青森県、岩手県、秋田県、宮城県など東北地方でも田山姓を見受る事が出来ます。東北地方の田山家では、どのような家紋を使用しているのか合わせてご教授頂けらば幸いです。因みに盛岡市乙部の如法寺では「丸に九枚笹」紋とのことでした。よろしくお願い申し上げます。

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