岩手県平泉町平泉字柳御所

震災前取材

 

柳之御所遺跡は、初代藤原清衡が江刺から平泉に移り住み、居を構えたところといわれており、「吾妻鏡」に記された奥州藤原氏三代の居館「平泉館」とも考えられているがまだ定かではない。

秀衡が鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられたことから、平泉は東北の政治の中心となり、柳之御所は政庁のような役目を果たしていたのではないかと推測される。ここからは、藤原氏の絶大な勢力をうかがわせる中国産の白磁の壺や、国内初の村の印章がなどが見つかっている

奥州における朝廷に対する蝦夷の反抗は、坂上田村麻呂の征討によりほぼ沈静化した。その後は俘囚の長をおいて、実効支配を行った。奥州においては安倍氏が陸奥国奥六郡の俘囚の長であったが、安倍氏は奥六郡に、衣川を本拠地とした族長制の半独立勢力を形成した。

安倍氏は次第にその勢力を大きくし、朝廷と対立するようになり、この為朝廷は、源頼義、義家を奥州に派遣し、事態の収拾に当たらせた。しかし事態はこじれ、永承6年(1051)前九年の役に発展する。前九年の役は12年間にわたり戦われ、当初は安倍氏が優勢に戦いを進めたが、源頼義が出羽の清原氏を味方につけたことで形成は逆転し、安倍氏は滅亡する。

このとき、在庁官人の藤原経清は、その妻が安倍氏の娘であった為に、安倍氏の側で戦った。安倍氏の敗北と共に経清は惨殺されたが、その妻の安倍氏の娘と経清の遺児の清衡は助けられ、清原氏に引き取られた。

これは、当時の安倍氏の勢力が強大であったために、安倍氏が滅亡した跡の奥六郡の統治のためには、安倍氏の流れも取り込む必要があったためと考えられる。

その後、清原氏の家中の内部争いから、永保3年(1083)、源義家を巻き込んで後三年の役が起こる。この争いは、清原武貞の嫡子真衡、清衡、それに同母弟の家衡との争いで、結果として源義家を味方にした清衡が勝利し、清原氏は滅亡し、清衡は父経清の姓に復し藤原を名乗り、奥六郡を治めることになった。

清衡は本拠地を江刺郡豊田館(奥州市)に居を構え勢力の拡大を図る一方、寛治5年(1091)に関白藤原師実に貢馬するなど京都の藤原氏と交誼を深め、また柴田郡の大高山神社・刈田郡刈田嶺神社の年貢金を代納する等して、奥羽の統治者としての地位を築いていった。嘉保年中(1094~1095)頃には、平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手、中央の仏教文化を導入して中尊寺を再建し、平泉に壮大な都市をつくった。

平泉藤原氏は、その外交努力で朝廷と良好な関係を築きながら、奥州の武の系譜の安倍氏を引き継ぐものとして、平泉四代100年の中央政権と一線を画した時代を実現した。

平泉滅亡後も永く東北の文化の源流として、また東北の武の系譜として、伊達氏を始めとして、多くの大名により尊崇を受けた。