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宮城県大崎市三本木新沼字南野土

 

新沼地区下沖集落の中央部に東要害、西要害と呼ばれる小字名がある。この地域が新沼城の跡と見られる。多田川、鳴瀬川に囲まれた平城で、当時はいくつもの水堀と湿地帯で囲まれた要害であったと想像出来る。現在は水田と宅地に変わり、遺構らしいものは残っていない。稲荷神社境内地周辺の東西120m、南北100mほどの箇所が主郭跡と伝わり、神社脇に標柱が建てられている。

東要害は、大崎氏家臣遠藤掃部の居所、西要害は、上野(新沼)甲斐の居所と言う記録と、天正年中(1573~95)の新沼城主は新沼甲斐との記録が残っている。天正16年(1588)、大崎合戦の際には、城主新沼甲斐守は伊達氏の傘下にあった千石城主遠藤出羽守の婿であったことから伊達氏に与している。

この大崎合戦では、伊達氏は軍勢を二つに分け、留守政景率いる一隊が師山城を、泉田重光率いる一隊が中新田城を攻めた。泉田勢は、頑強な抵抗を続ける中新田城を攻め、三の丸を落とし、二の丸をも落とした。しかし折からの大雪で、撤退を余儀なくされた。一方の師山城を攻めていた留守政景は難渋し、中新田城の泉田勢と合流しようと城の囲みを解き中新田に向ったが、大雪の中、伊達勢は、師山城、桑折城、中新田城から打って出た大崎勢に挟撃された。

泉田勢は、伊達方の新沼館に逃げ込み、逆に大崎方に押し込められ包囲された。留守勢は雪の中孤立したが、留守政景の舅でもある、大崎方の黒川月舟斎晴氏の温情もあり、戦場を離脱し松山千石城に戻った。泉田重光、長江月鑑斎らは篭城し抵抗したが、兵糧もつき、いかんともし難く、結局、城兵の命と引き換えに捕らわれた。

3 thoughts on “新沼館跡

  1. 私は新沼城があった所に住んでいる者です。
    新沼城に関しては、「三本木町史 下巻」昭和41年12月25日発行に詳しく載っています。
    (p、15~17)
    尚、私の住む屋敷は、東要害、で今も昔の水堀の跡の面影が残っています。
     西要害についても、住人に聞くことができます。

    1. 他県の更新をしていたもので、コメントの「発見」が遅れてしまいました。申し訳ありませんでした。
      >私は新沼城があった所に住んでいる者です。<
      近くに行ったときには、また是非訪れてみたいと思います。その折にでも、ご助言いただければ嬉しいです。

  2. 大崎市の郷土史研究会研究会の方々が視察に来られた際偶然にも出会いまして、私も町史を調べると、新沼城跡の標柱の記載が不完全な事が分かりました。
    尚、今後も調査を続けたいと思っています。

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