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宮城県仙台市青葉区土樋

この地蔵は、伊達騒動の際に斬刑に処せられた、伊達氏重臣伊東重村の次子の伊東七十郎重孝を供養するために建立されたもの。

重孝は、伊達政宗に仕えた名将伊東肥前重信の孫にあたる。 仙台藩三代藩主の伊達綱宗は、不行跡を理由として、叔父の一関藩主伊達兵部宗勝らの訴えにより、幕府より強制隠居させられた。その跡は2歳の亀千代が継ぎ、その後見に伊達兵部がつき次第に実権を握っていった。

兵部は、意に沿わぬ奉行の奥山大学が失脚すると、監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行に上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の原田甲斐宗輔も加担し、諫言した里見重勝の跡目を認めず、故意に無嗣断絶に追い込んだりと、兵部を中心として専横を極めるようになったと云う。

このような時期に、席次問題で兵部派は伊東氏と争うようになった。伊東重孝は、兵部派の専横を憎み、伊達兵部を討たんとして、その機会をねらっていたが、果たせず捕らえられ獄に投ぜられた。伊東一族も捕らえられ、重孝は、寛文8年(1688)4月、この地で斬首され、一族も流罪、切腹、追放等処分された。

重孝は、処刑されるまでの三十三日間断食し、斬首されるときには「我、首を打たれても後ろに倒るべし、後ろに倒らば、我が霊魂三年の内に逆賊を滅すべし」と叫び、その言葉通り斬首され仰向けに倒れたと云う。

その3年後の寛文11年(1671)、伊達安芸が領地問題で訴訟を起こし、その審問の場となった大老酒井忠清邸で、原田甲斐による刃傷事件が起きた。原田甲斐はその場で切り殺され、伊達兵部は土佐に流され失脚した。この事件の後、伊東重孝は忠烈の士として称えられ、四代藩主伊達綱村により伊東家は再興した。