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宮城県栗原市金成

震災前取材

 

現在の栗原市金成には、炭焼藤太とその子の金売り吉次の伝説が多く伝えられている。この鶏坂もその内の一つである。

平泉藤原氏隆盛の頃、金成の畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。この炭焼藤太のもとへ、ある日京都の三条右大臣道高の娘の於幸弥姫(おこや、あるいは某宮家の姫で古耶姫ともいう)と名のる娘が遠く金成にやって来た。清水の観音様のお告げで、夫たるべき人が奥州金成にいると聞き、炭焼藤太の嫁になるため、はるばる陸奥に下って来たのだという。

二人は夫婦になり仲むつまじく暮らした。藤太はその妻から、砂金の価値を教えられ、この地に多く産した砂金を持って京へ上り、金売りをして長者になったと云う。

いつしか藤太の村は金生と呼ばれるようになり、そして藤太が炭を焼いた山は金山沢と呼ばれるようになった。長者になった藤太は、黄金の鶏をこの地に埋め祀り、この地は鶏坂と呼ばれるようになった。以降、この地からは時折暁の闇を破って鶏の鳴き声が聞こえてきたと伝えられる。

この伝説は長く伝えられ、天明6年(1786)に金成村を訪れた菅江真澄も同じことを書きとめている。この金鶏が、文化15年(1818)、鶏坂の道路普請をしているときに土中から炭にくるまって出てきたと云う。

雄は長さ7.5cm、高さ3cm、雌は長さ6,3cm、高さ3cmあり、雌に「山」、雄には「神」の文字が刻んであり、現在も大事に保存されている。