宮城県柴田町船岡字館山

 

別名:芝田館、四保館、船岡城、船岡要害

平安時代中期の前九年、後三年の役では源氏の陣所として既に城砦としての役割を持っていたと伝えられるが定かではない。正治2年(1200)、奥州藤原氏滅亡後も奥羽には各地に反乱が起こり、この城は芝田次郎が居館として鎌倉幕府に追随せず、源頼家の命により宮城四郎家業によって追討された。

南北朝期には北畠顕信の陣所になったと伝えられ、また南朝方の四保時基が居住していたとされ、足利尊氏の命を受けた高師冬によって攻略されている。戦国期には伊達氏の傘下に属し、天文年間(1532~54)に、柴田氏祖の四保定朝が居城とし、二代宗義の代に柴田氏と改称した。柴田氏は、文禄2年(1593)、志田郡桑折城へ移封となるまでのおよそ60年間この城に居住した。

慶長年間(1596~1615)には伊達氏重臣の屋代景頼が居住、次いで元和元年(1615)伊達氏宿老原田宗資が4千300石を以て入封した。しかし寛文11年(1671)、嗣子の原田甲斐宗輔が寛文事件で刃傷事件を起こし斬死し、原田氏は断絶となった。その後天和元年(1681)、柴田宗意が5千石を以て登米郡米谷城より再び入封し、三の丸に居館を置き、以後明治維新まで柴田領主として180年間居城とした。

現在は船岡城址公園となっているが、西に白石川が流れ、また沼や堀に囲まれ、峻険な地勢と相まって、天然の要害の山城の形態をとどめている。大手門は三の丸の東麓ほぼ中央にあり、詰の門にいたる坂道は「く」の字を呈し、「みだれ坂」と呼ばれ、今も面影をとどめている。三の丸に土塁と古井戸が残り、北側には石垣の跡も残っている。

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