宮城県栗原市志波姫堀口

震災前取材

 

江戸時代の初期、現在の築館から東側は伊豆野原と呼ばれた野谷地だった。仙台藩二代藩主伊達忠宗は、古内主膳重広に伊豆野原の開拓を命じた。重広は、仙台藩きっての土木技術者である川村孫兵衛を呼び、開拓が始まった。

孫兵衛らは、迫川から水を引くことを計画し、孫兵衛は昼は寝て夜になると仕事にとりかかり、起点と終点にそれぞれ提灯をひとつ立て、その提灯の火を上げ下げして行ったり来たりさせ、その間に多数の提灯を並べ置き換えて、これを何 度も繰り返し、用水路の勾配を測ったと云う。

用水路は、全長五里十一丁(約21km)に及び、二千町歩余の水田に灌漑する予定で、4年の歳月を要し造られた。しかし、水路が出来上がったものの十分水が流れず、工事の責任者だった加藤甚兵衛は捕えられ牢に繋がれた。甚兵衛は牢内で水路の途中に滝をつくることを考えつき、意見を述べて牢を出され、この地に「大滝」を造ったところ、水は流れ出し、皆歓声をあげて喜んだと伝えられる。

この堰は伊豆野堰と呼ばれ、伊豆野原には美田が開かれ、一万五千石の収穫が得られたと記録に残されており、現在も伊豆野原一帯の栗原郡迫町、築館町、志波姫町、若柳町の水田2,260haに農業用水を送り続けている。

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