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東光寺背後の山は高さ40mの雑木林で、頂上部には東西80mの細長い平場があり、ここが中心部と思われる。北西部には東西30m、南北80mの平場、北東部には直径50m程の平場を置く二つの丘を連続させ、東光寺を囲む形で東西に尾根を突き出している。現在墓石がたつ小平場も郭の跡とも思われる。
城主は、留守氏の家臣の余目氏で、本城の岩切城の出城であったと思われる。この余目氏には、国分盛重の三女が嫁いでいる。
観応2年(1351)、足利尊氏とその弟直義(ただよし)が争い、このことから足利四探題の一人畠山氏と同探題の一人吉良氏とが激しく争った。畠山氏には留守氏が、吉良氏には国分氏がつき、岩切城に篭る畠山勢を吉良勢が攻めた。余目氏はこのとき畠山方として余目城に篭ったが、この余目城がこの東光寺城と考えられる。
戦いは吉良方の勝利に終わり、その結果、一時留守氏は没落する。