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宮城県仙台市宮城野区蒲生字町

  六十二万石の仙台藩では伊達政宗以来、新田開発をつづけ、実際の石高は100万石を超えたといわれる。仙台米を水上輸送するために、仙台湾沿いに、阿武隈川河口の荒浜から松島湾の塩釜まで全長31.5kmの運河が掘られた。初代藩主伊達政宗の 慶長2年(1597)から始まり、4代藩主綱村の寛文元年(1661)までの64年間にわたって作り上げたもの。この運河は明治時代になってから、政宗の追号、貞山にちなみ貞山堀と呼ばれるようになった。 塩竃湾と七北田川の河口付近までの8kmの区間は、寛文13年(1673)に完成し、これを御舟入新堀と称した。また、運河終点の蒲生に舟入を設け、河岸に米蔵を建て、ここを御蔵場と称した。この御舟入新堀の開通に伴い、仙台北方の穀倉地帯からの年貢運送が、冠川河口まで舟で運送することができるようになり、さらに、高瀬堀、御舟曳堀を経由して苦竹御蔵と称する米蔵まで船で運送することができるようになった。