宮城県大和町吉岡字天皇寺

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大和町吉岡の天皇寺に、伊達政宗の側室の飯坂の局の供養碑と、吉岡城主で政宗の三男の宗清の墓がある。

飯坂の局は、伊達氏一族の飯坂宗康の次女として生まれた。黒川城主黒川晴氏の兄式部を婿養子として飯坂家を継がせることになっていた。ところが、当代第一の美女といわれた美貌を愛した政宗は、天正9年(1581)米沢に召しだし側室とした。後年黒川氏が、大崎合戦の折に大崎方についたのはこの時の遺恨だったともいわれている。飯坂の局は、政宗の最初の側室で、政宗の長子の秀宗(後の宇和島城主)を生んでいる。

扇でねずみを追う仕種が猫のようだったということから、政宗が「猫御前」とあだなをつけ、また仙台松森に隠棲したことから、松森御前とも呼ばれている。

天正19年(1591)、政宗は米沢から岩出山城に移ったが、局はこのころ疱瘡を罹っていたため岩出山には行かなかった。病は治ったが痘痕で美貌は失われ、局は身を引くことを政宗に願い出、政宗はこれを許して、扶持500石を与え続けた。この時期、秀吉の命により4歳の実子の秀宗を秀吉のもとにあげざるを得なかった。23歳の局は、松森の辺りに小さな庵をむすんで移り住み、他人との面会もせず静かに暮らした。

政宗は朝鮮の役、関白秀次事件、上杉討伐と忙しく、ゆっくりと国許に居る暇がなかったが、関ヶ原の戦いも終わり、慶長6年(1601)、新築された仙台城に戻った政宗は、慶長9年(1604)鷹狩りの帰途松森に立ち寄って局と会った。実に14年ぶりの再会であった。

飯坂の局の実家の飯坂氏には男子がなく、父の宗康が没したため飯坂家は断絶していた。政宗は側室が生んだ三男の権八郎(後の宗清)を局の養子として飯坂家の跡を継がせ再興することを約した。宗清の母は新造の方といい、慶長5年(1600)男子を生んだ。幼名を権八郎と名づけられたが、新造の方は3歳の幼子を残し病死した。権八郎は 飯坂の局の養子となって松森館に住むようになった。

権八郎は11歳で元服し、飯坂河内守宗清となり、慶長15年(1610)三万石の城主として黒川郡下草城に移り、さらに元和2年(1616)、吉岡三万八千石を領した。 飯坂の局は宗清に同行して、下草城や吉岡に赴いた。宗清は寛永11年(1634)七月、35歳の若さで病没し、飯坂の局も、すぐ後を追うように1ヶ月後に没した。享年66歳。宗清とともに、吉岡の天 皇寺に葬られた。

飯坂家は、宗清に子がなく、桑折貞長(こおりさだなが)を養子にしたがこれも子がなく、二代藩主忠宗の子宗章(むねあき)を後嗣としたが16歳で夭折し、原田甲斐の子輔俊(すけとし)を後嗣とした。だが寛文事件で切腹させられ、結局飯坂家は再度断絶した。

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