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宮城県大和町吉岡字館下

震災前取材

伊達政宗の三男の宗清は、母新造の方を幼くしてなくし、松森に隠棲していた政宗の側室の飯坂の局が養母となり、局の実家の飯坂氏を再興した。

宗清は成人してから下草城に居を移し、数年間居したが、低地であったために、毎年のように洪水に襲われ、元和2年(1616)、吉岡三万八千石を領し大和町吉岡に城を築き移った。

城は、大和町のなだらかな丘陵に築かれた平山城で、西側と地形的には恐らく南側にも水堀が配されていたようだが、近世の治世の城のようで、さほど防備の固い城とは言い難い。また、その大きさも三万八千石を領した割には小さく、宗清が35歳の若さでなくなったこともあり、未完成のままの城だったのかも知れない。

飯坂の局によく訓育されたようで、領内の経営には心を砕いたようだが、若くして亡くなり、その事跡を伝えるものも少ない。

その後、吉岡城には、岩手県大東町から但木土佐顕行が転封しこの地を治めた。