宮城県塩竃市浦戸寒風沢字湊

 

寛政5年(1793)11月、江戸向けの米と材木を積んだ千石船の若宮丸が石巻港を出航した。船主は米沢屋、船頭は平兵衛、乗組員は16人で、この中に寒風沢の津太夫、左太夫、銀三郎、民之助、左平、石浜の辰三、室浜の太十郎、儀平がいた。

若宮丸は塩屋崎(福島県いわき市)において悪天候に遭い、舵も失い、帆柱も失い漂流し、翌年5月、アリューシャン列島の小島のオンデレィッケ島に漂着した。船頭の平兵衛はここで病死したが、残りの15人はロシア人に助けられ、シベリアのイルクーツクに送られた。イルクーツクに7年間滞在する間に、2名が死亡し4名がロシアに帰化した。

1803年3月、ロシア皇帝アレクサンドル一世の命により、13人の漂流民は、首都ペテルブルグに呼び出された。馬そりで日夜かけ続ける強行軍で、途中疲れや病気のため3人が現地にとどまった。シベリア7000kmを49日間で走り、10名がペテルブルグに到着した。皇帝に謁見、帰国の意思を問われた10名のうち、津太夫、左平、儀平、太十郎の4人が帰国を希望し、残り6名は残留を希望した。

4人を乗せたロシア船のナジェージダ(希望)号は、主都近くのクロンシュタットを出航し、デンマークのコペンハーゲン、イギリスのファルマス港、サンタカタリナ島を経て大西洋を渡り、マゼラン海峡を抜けて南太平洋のマルケサス諸島、カムチャッカのペトロパブロフスタ港などに寄港し、約1年3ヶ月に及ぶ航海を経て、1804年9月、ついに長崎に入港した。

帰国した4人は、幕府の厳しい取調べを受けた。そのような中で、ロシアとの通商交渉のもつれもあり、室浜の太十郎が口を小刀で刺し沈黙した。主に津太夫が取調べを受けたが、キリシタン禁制の日本でのロシアに残った仲間達の親族を思ってのことだろう、余り多くを語らなかったと言う。

その後4人は仙台藩に引き渡された。仙台藩主伊達周宗の命で、蘭学者の大槻玄沢が詳細な聞き取り調査を行い、「環海異聞」をまとめた。

室浜の太十郎は沈黙のまま故郷について間もなく死亡し、その半年後、同じ室浜の儀平もあとを追うようにして没した。寒風沢の津太夫、左平もロシアでのことをあまり多くは語らなかったのだろう、その後の消息は定かではない。

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