岩手県北上市稲瀬町水越

2011/12/07取材

 

聖塚(ひじりづか)は、鎌倉時代に活躍した武将の河野通信の墓と伝えられる。この墓は昔から聖塚とよばれ、四角な段のうえに円く土を盛りあげた二段造りで、表面を平らな石でおおい掘をめぐらした、名族にふさわしい堂々とした造りとなっている。

河野通信は伊予の名族の出で、鎌倉幕府をひらいた源頼朝の妻、政子の妹を妻とし、頼朝に仕えた。  壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦の際には、水軍を率いて源義経勢として大活躍をした。

頼朝の奥州平泉征討の際には、岩手郡地方まで従軍し、その功により、伊予のほかに陸奥にも所領を得た。のちに伊予国内の軍事や治安をつかさどる守護を命じられ、伊予の高縄城に居した。

承久の乱(1221)のとき、通信は後鳥羽上皇がわにつき敗れ、通信はこの江刺郡に流された。通信は世を捨て、極楽寺に庵をむすび余生を送り、貞応3年(1223)、68歳で没した。

その後、河野一族からは、北九州に蒙古軍が襲来したときに活躍した曾孫の通有などが出ており、また時宗を開いた一遍上人は通信の孫にあたる。一遍は流浪の民となった通信の七男通広の子で、若くして僧になり智真と呼ばれた。遊行を本願とする鎌倉仏教の時宗を開き、後に一遍上人とよばれるようになった。

一遍は,自分の新しい仏教の教えを民衆に広めるため旅に出て、その遍歴の生活を描いた鎌倉時代の絵巻物「一遍上人絵伝」(国宝・京都歓喜光寺蔵)として残している。一遍は全国を遊行し、白河から奥州に入り、この江刺の祖父通信の墓にもうでて供養した。

この絵巻の詞書には、「奥州江刺の郡にいたりて祖父通信墳墓をたずね給に…」とあり、見わたすかぎりがススキの野で、ろくな花とてなく、ススキの穂を供えて念仏供養をしたことが記されている。絵には二十人ばかりの弟子たちとともに、墳墓のまわりで合掌している姿が描かれており、丘陵下の沢田、そこに面した崖べりの墳墓、周囲の丘など、描き込まれた地形は今日も変わらない。