岩手県北上市立花

2014/05/10取材

 

1 匂い優しい白百合の 濡れているよなあの瞳
想い出すのは 想い出すのは 北上河原の月の夜

2 宵の灯(ともしび)点(とも)すころ 心ほのかな初恋を
想い出すのは 想い出すのは 北上河原のせせらぎよ

3 銀河の流れ仰ぎつつ 星を数えた君と僕
想い出すのは 想い出すのは 北上河原の星の夜

4 雪のちらちら降る夜に 君は召されて天国へ
想い出すのは 想い出すのは 北上河原の雪の夜

5 僕は生きるぞ 生きるんだ 君の面影胸に秘め
想い出すのは 想い出すのは 北上河原の初恋よ

 

この歌は、昭和20年代の初めごろから、岩手県盛岡、宮城県仙台あたりから、自然発生的に歌われ始めた。盛岡や仙台の大学、専門学校に、各地から遊学していた学生たちが帰省の際に持ち帰り、後輩などに教えたことから、しだいに全国に広まった。日本がようやく敗戦から立ち直り、高度経済成長期へ向かおうという昭和30年代には、当時流行していた歌声喫茶で「北上夜曲」は大いに歌われた。しかし、流行を続けながらも作者が分からず、作者不明という事実がますますこの歌を神秘的なものにした。

これに着目したレコード各社はレコード化を企画、作者を捜したところ、昭和36年(1961)になって、作者が名乗り出て、作詞は岩手県江刺市出身(現:奥州市江刺区)の菊地規(のりみ)、作曲は岩手県種市町出身の安藤睦夫であることがわかった。菊地が詞を作ったのは昭和15年(1940)12月、安藤が作曲したのは翌16年(1941)2月だったという。菊地は水沢農学校、安藤は旧制八戸中学の生徒で、2人ともまだ十代だった。この歌は戦時下の暗い時代に、十代の手によって作られていたという話題は、当時、センセーションを巻き起こした。

作詞者の菊地規は、大正12年(1923)、江刺郡田原村原体(現奥州市江刺区田原)に生まれた。水沢農学校在学中から詩作をはじめ、友人たちと同人誌を発行するなどして創作活動をしていた。当時、水沢農学校には安藤という配属将校がおり、菊地規と安藤とは同じ下宿に住んでいた。この将校が作曲をした安藤睦夫の叔父にあたる。

旧制八戸中学の生徒であった睦夫は、叔父の下宿を訪れて規と出会い、二人は意気投合。歌を作る約束をした。睦夫に曲をつけてもらうために、昭和15年(1940)12月に規が初めて作詞したのが「北上夜曲」だった。翌16年2月、睦夫は規から渡された歌詞の曲作りに没頭。試験勉強がおろそかになり、危うく留年の憂き目を見るところだったという。菊地規、安藤睦夫は、その後、共に教師の道を歩んだ。

菊地規は、農学校在学当時、通学に北上川に架かる小谷木橋を利用していた。また、北上川に近い江刺市愛宕(現:奥州市江刺区愛宕)の下川原に下宿していたこともあった。北上河畔で見かけた女学生にほのかな思いを寄せ、歌のモチーフにしたのかもしれない。

この歌はいくつものレコード会社が競作。和田弘とマヒナスターズ、ダークダックス、菅原都々子らがレコーディングし、大ヒットした。現在もなお、国民的愛唱歌として歌い継がれている。また松竹、日活、東宝などが映画化し、これも一大ブームとなった。

長い間、作者がわからないまま歌われてきたため、歌詞は次のように様々に変化していることもあり、それもまた名曲での証でもあろう。

「たそがれ河原に秋たけて 白いすすきの波の果て 想い出すのは想い出すのは 北上河原の秋の夜」
「春のそよ風吹く頃に 楽しい夜の接吻(くちづけ)を 想い出すのは想い出すのは 北上河原の愛の歌」

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