岩手県北上市稲瀬町内門岡

2014/05/10取材

 

国見山廃寺は、古代山岳寺院跡で、国見山南麓に位置している。今もこの地区には、僧坊を連想させる地名が多く残っており、700を超える堂塔、36の僧坊を持つ大寺院だったと伝えられる。

創建は平安時代中期で、平泉が栄える200年も前から、北上盆地における仏教の中心地だったことが伺える。

延暦2年(802)、この地の南方9kmほどの地に、坂上田村麻呂により胆沢城が築かれた。胆沢城は、この地域の蝦夷に対する中央政府の出先機関として整備が進められ、国家鎮護の仏教儀式が盛大に行われるようになり大勢の僧侶が参加した。これらの僧侶のための山林修行の場として国見山に寺が開かれた。当時は小さな本堂があるだけの山寺だった。

その後この地は「奥六郡」と呼ばれ、俘囚の長である蝦夷出身の安倍氏に支配が任されるようになり、この安倍氏が、小さな山寺であった国見山廃寺に五重塔など多くの堂塔を建立したものと考えられている。その規模は、北東北で最大級のものとなり、まさに仏教の一大聖地といった様相を呈するようになった。

安倍氏は、前九年の役により、源氏と出羽の豪族清原氏により攻め滅ぼされ、その戦いの中、国見山廃寺の本堂も焼け落ちた。しかし、安部氏に代わり北東北全体を治め、鎮守府将軍にも任じられた清原氏により、さらに大きな本堂が再建された。清原氏は、国見山廃寺と合わせて、その北にかってない巨大な堂を持つ白山廃寺を建立し、その権力を誇示した。

しかしその清原氏も、後三年の役により滅び、その戦いに生き残った藤原清衡が実権を握り、政治の中心を平泉に移し、奥州藤原三代の栄華の礎を築いた。その12世紀前半、平泉に中尊寺が完成する頃には、国見山廃寺の数多くの堂塔は殆ど無くなり、鬱蒼とした山となっていった。

江戸期の天明8年(1788)、紀行家の菅江真澄がこの地方を訪れた際、国見山を訪れており、山頂の大岩である戸木の峰の大悲閣で、地元の老人に、かつて金福山定楽寺という大寺があり、あらゆる寺の頭だったという話を聞いている。この時代には既に国見山廃寺はあとかたも無くなっていたが、伝承としてはしっかりと息づいていたようだ。

現在、数次にわたる発掘調査の結果、国見山廃寺は平安時代中期の、北東北において最大の寺院跡であることが確認されており、この国見山が、平泉以前のこの地方一帯の、仏教の中心であったことが次第に明らかになってきている。

 

・五重塔
ホドヤマ(宝塔山)の頂き、国見山のどこからも見える場所に五重塔が建っていた。大きさは4.5m四方、高さは27mほどと考えられ、現存している五重塔の中では、出羽神社の五重塔と同規模、年代は国宝である京都醍醐寺の五重塔と同じ頃に建てられたと考えられる。

・阿弥陀堂
阿弥陀堂は、国見山廃寺の伽藍の中でも本堂に次ぐ大きな建物だった。大きさは10m四方の正方形で、中央には土盛りがあり、須弥壇があったと思われるが、その大きさから、丈六の阿弥陀像が鎮座していたのではないかと考えられている。

・多宝塔
五重塔と対をなす極楽寺山の突端に建っていた4.9m四方の建物で、大きな荷重に耐えられる構造であることから、天台密教系の特徴的な塔である多宝塔であったと考えられる。

・本堂
国見山廃寺の初期より5回にわたり建物が作り替えられた唯一の場所であり、代々の本堂があったと考えられる。11世紀後半には、最大規模を誇る21.7m×8.2m、七間堂というタイプの堂が建てられていた。堂の中には、1.8m×0.9mほどの小さな石組みがあり、石組みの周りから土でできた螺髪が見つかったことから、ここに納められていた仏像は1.2mほどの塑像であり、国見山廃寺が開かれたころより大切に守られてきた本尊であったと考えられる。

・胎内くぐり
火山噴出物が風化し、自然の造形によって岩の門が形作られている。江戸時代の紀行家、菅江真澄が記した『岩手の山』にも「胎内潜」とあるように、古くからこの名前で呼ばれており、修行者たちはこの場所を通ることで自らを浄化し、新たに生まれ変わることができると考えていたと思われる。

・戸木の峰
国見山は火山の噴出物により形成された山で、溶岩が固まってできた岩が風化・浸食によって自然にむき出しになっている場所が多くあるが、その中でも北上盆地にせり出した場所にひときわ大きな岩が露出している。北上盆地を一望できるこの場所は、国見山廃寺文化における信仰の中心であり、山林修行の場として国見山廃寺が開かれるきっかけになったものと考えられている。

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