岩手県北上市鬼柳町下鬼柳15地割

2014/08/22取材

 

別名:笊渕館

丸子館は和賀川南側にはり出した標高11mの丘陵先端に位置している。現在は国道4号線により、東西に分断されている。

中央を主郭とし、南西に二ノ郭、南東に三ノ郭が配されている。城域は城域は、東西約300m、南北約250mで、空堀が配され、南側は湿地で守られていた。主郭と二ノ郭は、南北に空堀によって区画されている。三ノ郭は東、南、西側は規模の大きい空堀で区画され、独立した出丸的性格を持っていたと思われる。

調査の結果、縄文から弥生時代にかけての、食料貯蔵の穴や、掘立柱建物や竪穴式建物の跡が無数に確認された。また14~15世紀の青磁、白磁等の陶磁器、古銭、鉄製品が出土し、比較的規模の大きい在地領主レベルの日常居館だったと推測される。

丸子館は和賀氏の有力氏族である鬼柳氏の居館と考えられている。鬼柳氏の祖は、和賀氏始祖である和賀義行の次女の夫、葛西八郎清基であったとされる。南北朝期には、和賀惣領家は南朝方に与し、南北朝期の建武2年(1335)には、鬼柳憲義が北畠顕頼より丸子館北側に位置する新堰村を領知している。しかしその後鬼柳氏は北朝方に与して惣領家と対立、観応2年(正平6年、1351)には、奥州探題職吉良貞家から、鬼柳常陸介義綱に所領安堵状が宛がわれている。しかし義綱には獅子がなく、甥の義勝に鬼柳氏を継がせた。後に義勝は和賀氏の総領を継いだと思われる。

天文年間(1532~54)には鬼柳伊賀守の居館だったと考えられ、義勝の弟である義光が伊賀守を名乗っていたとされる。その後、天正6年(1578)に、鬼柳伊賀守は居館を鹿島館に移した。