岩手県遠野市小友町21地割

2014/05/09取材

 

天文年間後期、この地の領主の平清水館主、平清水駿河が弁天堂を創設し、領民とともに修験道場としたのが始まりとされる。その後、秋田花輪の安保氏末裔の篤隆和尚がこの地に入り開山し、平清水館主より、山号を清水山と号したと伝えられる。

平清水氏は、南北朝期に南朝方の勢力拡大のためにこの地に入った九州の菊池氏の流れとされる。その後この地に土着し、阿曽沼氏に臣従したが、阿曽沼氏は豊臣秀吉の奥州仕置きにより大名家としては没落し南部氏の与力となった。関ヶ原の戦いの際に、阿曽沼氏が南部氏とともに山形に出陣した際に、南部利直は平清水氏らに阿曽沼氏の居城の横田城を奪わせ、阿曽沼氏を駆逐した。

平清水氏はその後、娘が南部氏の若き重臣の北十左衛門に嫁すなど、南部氏の下で盤石だと思われたが、北十左衛門が出奔し大阪城に走ったことから、それに連座したとして処分され断絶した。