岩手県八幡平市松尾

2013/06/10取材

  • 長者屋敷清水
 

この地は、豆渡し長者と呼ばれた、蝦夷の長のアテルイの居住していた地と伝えられるマトーコタンの伝説の地である。

昔、この長者屋敷の主は、周辺の村々の人々から「西の長者」と呼ばれて尊敬されていた。この長者は、当時「東の長者」と言われ、今の西根の長者山の麓に屋敷を構えていた「酒樽長者」の娘を嫁に迎えることになった。

祝言の日、東の長者は、馬88頭にお供の者300人という豪勢な行列を組みこの長者屋敷に向ってやってきた。当時、この長者屋敷は、砦でもある堅固な館で、前を流れる長川には橋が架けられていなかった。村人たちは、嫁入りの行列がどのように屋敷に入るのか、気をもみながら見守っていた。

すると、突然大木戸が開き、中から豆俵を担いだ大勢の男たちが出てきて、長川に見る見るうちに豆俵を積み重ねて橋を架けてしまった。嫁入りの行列は豆俵の橋を渡り、無事大木戸の中へ入っていった。村人たちはこれを見て、拍手喝采を送り祝福した。それ以来、長川のことを「豆渡川」と呼び、長者のこともまた「豆渡長者」と呼ぶようになったと云う。

この長者屋敷内には、聖なる神の水が湧く七つの湧き口と、一つのお釜と呼ばれる岩壷がありそれぞれに祠が祀られ、遠い昔からこの地に恵みをもたらし崇敬されていた。長者夫妻は、毎朝欠かさず夜明けと共に起きて、これら八つの祠に詣で、大自然の神々の恵に感謝し、マトーコタンの豊作を祈り、一族の無病息災と繁栄を祈っていた。

しかし、この頃、エミシの国の南方では、大和朝廷の軍勢が進出し、蝦夷との争いが頻繁に起こるようになってきた。この地の長者屋敷の一族も、そのまま安穏と暮らしてはいられなくなってきた。この地の豆渡長者は、その武勇と人柄がかわれ、エミシの棟梁に迎えられることになった。長者は、この地をまだうら若い息子の登喜盛と一族の人達に任せ、平泉方面の戦いの場に出陣して行った。

それからの長者は、朝廷軍から恐れられ、蝦夷の梟帥「悪路王」「アテルイ」などと呼ばれ大変恐れられたが、遂には坂上田村麻呂と戦い捕らえられ都に引き立てられ、田村麻呂の助命の願いも空しく首を刎ねられた。

その後、この地に残された蝦夷一族の登喜盛らは、朝廷軍に対して頑強に抵抗したようで、次のような伝説が伝えられている。

奈良時代、高丸悪路の一子登喜盛は、この地を居城として立て篭もり、時折館を出ては各地を略奪し、財宝をこの地に蓄えていた。あるとき登喜盛らは、盛岡の大宮に住む神子田多賀康の娘の岩花を、家宝のお釜とともに拉致しこの地に幽閉した。

神子田多賀康は、娘岩花の救出を坂上田村麻呂に依頼し、田村麻呂は早速討伐に向かい、登喜盛一族を討ち岩花を救出した。田村麻呂は、このとき天皇から下賜された節刀をこの地の清水で洗い清め、さやに納めたとされ、その清水は「太刀清水」とも呼ばれるようになった。

この神子田多賀康の娘「岩花」が家宝のお釜とともに幽閉されたことから、この清水は御釜清水とも呼ばれ、水不足の時は御釜の水をかき回せば降雨間違いなしと伝えられる。主泉の清水のほか、湧き口は全部で八箇所あり、いずれも巨岩の根元から湧き出している。水温は通年10℃前後、カルシウム、マグネシウムなどを含有する軟水で、今もコーヒーやお茶、炊飯にと人気があり、盛岡あたりからも水汲みに訪れる人が絶えない。岩手の名水20選の一つにも選ばれている。

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