岩手県田野畑村きり牛

2012/04/01取材

牛切弥五兵衛は、弘化4年(1847)の三閉伊一揆の発頭人である。

弥五兵衛の家は、肝煎の補佐役を務める家柄で、この地では比較的裕福だったと云う。しかし、南部藩の財政が逼迫し始めると、領民には重税が課せられるようになり、さらには連年凶作の中、様々な新税や御用金も課せられるようになった。

弥五兵衛は、牛方として塩や海産物を運びながら念仏講の導師となり、藩内をくまなく歩き、10数年にわたり全領一揆の必要性を説いて歩き、一揆の影の支援者としてその名が知れ渡っていた。

そのためもあって、万六、弥五郎、万五郎などと各所で偽名を使っていたようで、現在でも謎の多い人物とされている。

この三閉伊通と呼ばれた三陸沿岸地方は、砂鉄が豊富に産出し鉄の生産が盛んに行われ、漁業も盛んだった。藩は、農産物に留まらず、これらの新しい産業にも重税をかけることになり、さらなる御用金も課した。この度重なる重税に耐えかねたこの地の農民たちは、弥五兵衛を発頭人として、弘化4年(1847)一揆を起こした。

この一揆は、約1万2千人の大規模なものとなり、遠野南部に強訴し、一定の成果は得られ、一揆税が圧政の元凶と考えていた家老の横山兵庫らが失脚し、藩主南部利済は隠居した。しかし弥五兵衛はその成果は不十分なもので、このままでは藩の圧制が繰り返されると考え、再びの蜂起を説いて周った。しかしその間に捕らえられ、嘉永元年(1848)斬首されたと云う。

その後、弥五兵衛が懸念したように、横山兵庫や南部利済は復権し、約定はすべて覆され、さらなる圧政が加えられるようになった。

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