岩手県花巻市城内

震災前取材

別名:鳥谷ヶ崎城

北上川に沿って形成された台地が東方に大きく突き出した地を利用した平山城。かつては北側を瀬川、北東を北上川が流れ、南には豊沢川と城の三方を河川に囲まれた急崖をなしていた。西側は台地続きのため幅30メートル以上の巨大な堀で切断し、崖がやや緩やかな南東斜面にまでめぐらしている。

江戸時代の絵図によると、内郭は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、それぞれを広い水堀で区画し、各郭の周囲には土塁や柵をめぐらしている。本丸に天守はなく、二の丸には郡代屋敷や馬場、御蔵が、三の丸は上級家臣団の屋敷になっていた。

城の裏口にあたる搦手門(からめてもん)は「円城寺門」と呼ばれ、和賀氏の本拠・二子城大手門だったものを移築したもの。「時鐘」は市役所前に移築されている。平成7年に西御門が復元されている。

花巻城の創建は古く、前九年の役の際に安倍頼時の城柵があったとも、後三年の役の清原武則の城柵があったとも言われている。

永享8年(1436)、薄衣氏が南部勢を支援するために「鳥谷ヶ崎」の地に陣を置いたという記事が「稗貫状」に表れるが、陣城程度のものであったと思われる。その後稗貫氏がこの地に入り、城主となったが、花巻城の原型が形作られたのはこの稗貫氏によるところが多いものと思われる。

安土桃山時代末期まで、鳥谷ヶ崎は稗貫氏の本拠地であった。稗貫氏は鎌倉時代、源頼朝に稗貫郡を与えられ入部、中世末期まで続いた豪族である。所領は現在の南部を除く花巻市、大迫町、東和町西部に及び「稗貫五十三郷」といわれる。各郷に一族・家臣を置き、諸城を築いていた。当初は小瀬川館(あるいは瀬川館)を本拠としたが、郡内各地を転々として最終的に鳥谷ヶ崎に城を構えた。史料によると永享8年(1436)以降のことであると思われる。

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