岩手県花巻市…身照寺

2014/05/10取材

  • 身照寺
 

宮沢賢治は明治29年(1933)9月花巻で生まれた。父は質屋を営み、地元では裕福な家に育った。小学校時代には鉱物採集、昆虫の標本づくりに熱中し、「石コ賢さん」とあだ名をつけられた。

明治42年(1909)、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。18歳の頃、法華経の経典に胸を打たれ、以後熱心な法華信者となる。19歳の時に現岩手大学農学部に首席で入学。学業のかたわら友人たちと文学同人誌『アザリア』を創刊、短歌を発表していく。

この頃、東北では度重なる飢饉で農民は貧困に喘いでいた。そして、質入れにくる貧農たちを見て、賢治はそんな家業に反発し、家出同然に上京し執筆活動をし、『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』『鹿踊りのはじまり』『かしはばやしの夜』『よだかの星』など、今も読み継がれる名作童話の多くは、この時期に書き上げられた。

半年後、最愛の妹トシの病気が重いことを知らされ帰郷し、花巻農学校(現、花巻農業高校)の教諭に就任する。しかしそのトシは24歳の若さで病没し、痛切な『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。

大正13年(1924)、生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』を自費出版する。この頃『土神と狐』を執筆。翌年からチェロやオルガンの練習を開始。

大正15年(1926)、賢治は教職を辞め、花巻郊外で農耕生活に入り、近隣の農家の青年たちと羅須地人協会を設立し、農業技術の普及に努めた。花巻一帯の農村を巡っては稲作の指導にあたると共に、農民たちに芸術の重要性を唱え、自宅で童話やレコードの鑑賞会を開いた。しかし、32歳のとき、日照りが続いていた中、農業指導で農村を走り回るなかで、過労や栄養失調が重なり、年末に急性肺炎にかかった。賢治は元来体が丈夫ではなく、実家に帰って療養するもこの病状は長引き、翌年も病臥が続く。

それでも賢治にはやりたいことが山ほどあった。農民を助けたい、童話を書きたい、体さえ丈夫であれば、もっと皆のために役に立てるという思いが、その後も賢治の体に無理をさせた。35歳、童話『風の又三郎』を執筆、また肥料用の石灰の普及に取り組んだ。岩手は作物が育ちにくい酸性の火山灰地が広がっており、アルカリ性の肥料用石灰で土を改良すれば、より多くの収穫が期待できた。

しかし過労がたたって再び発熱、賢治自身も死期が近づいていることを感じたようだ。病臥生活が続く中で賢治は布団の中で手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めた。

・雨ニモマケズ
雨ニモマケズ、風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ、丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク、決シテ瞋(いか)ラズ、イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ、ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ、小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ、行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ、行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ
ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ

昭和7年(1933)、闘病生活の中でも創作活動を続け、雑誌「児童文学」に童話『グスコーブドリの伝記』を病床から発表する。翌年の昭和8年には、病状が悪化する中で農民の肥料相談に応じていたが、秋になって容態が急変、9月21日、「法華経1千部を印刷して知人に配布して欲しい」と遺言を残して息を引取った。享年37歳だった。

死後、未完成のままの『銀河鉄道の夜』が発見された。賢治は28歳の頃から亡くなるまで、何年も『銀河鉄道の夜』に手を入れ続けていたが未完のままだった。

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