岩手県滝沢市鵜飼字外久保

2013/04/28取材

古代、岩手の山野には十数万頭の馬が棲んでおり、その馬を蝦夷たちは自由に捕えて、必要な時だけ使っていた。その内に、最も優れた馬は種馬として族長が所有し、集落の神聖かつ公共の場に囲いを設け、そこで大切に飼育されるようになった。それがお蒼前様や、御神馬や馬城(牧)などの起源となった。

古くは、倭の国では馬が不足しており、平安時代以前から、この地方にはしきりに馬買いが来ており、馬の交易は、次第にお蒼前様で行われるようになり、馬市へと発展していった。

その頃、買い取られた馬は、売主が遠く白河の関まで届けるのが慣わしで、彼らは馬の背に旅支度をつけて、はるばる長途の旅に出かけた。これが後世の「ちゃぐちゃぐ馬っこ」の始まりとされる。

江戸時代以前は、馬は主として軍馬として使われていたが、藩政期に入ると農耕用として使われるようになり、貴重な労働力として、農民は家族同様の愛情を注いで飼うようになった。

慶長2年(1597)のある日、何に驚いたのか、馬が野良しごとの途中で突然暴れ出し、滝沢まで駆けてきて死んでしまった。村人たちはこれを手厚く葬って祠を建てたのが蒼前神社の始まりとされる。

また次のようにも伝えられる。

昔、馬は田や畑の仕事をよく手伝い、人々は「曲り家」に馬と一緒に仲良く暮していた。端午の節句には馬も人も仕事を休み、沢山のご馳走を食べ体を休めることにしていた。しかし遠い村に住むある者は、端午の節句にも馬を働かせ、疲れた馬は動けなくなり、それでも棒でたたいて働かせようとした。そのためついに馬は怒り暴れだし、狂ったように走り出した。山を越え谷を越え、滝沢鵜飼の鬼越山の途中で、とうとう力尽き死んでしまった。

その時突然空がかき曇り雷が鳴り出し、雲の間から「我は蒼前の神である。これからは鬼越山で牛や馬の災難を除いてやる」と神様の声がした。村人はおそるおそる山に行ってみると、1頭の白い馬が倒れて死んでいた。かわいそうに思った村人たちは墓を作り神馬として大切に祀った。

それからはこのお蒼前さまには、毎年、端午の節句になると村の人々と馬が、大勢集まりお参りするようになり、やがて、馬に色とりどりのきれいな着物を着せ鈴をつけてお参りするようになった。

かつて蒼前神社の縁日は、端午の節句(旧暦5月5日)に開かれていた。この時期は田植え前の重労働が続くので、この日だけは仕事を休み馬を休ませ、神社の境内で1日を過ごすという風習が生まれた。

南部氏は中世から馬産に力を入れており、各地に「牧」を多く持っていた。この地もその一つで、特に藩政期に入ってからは、良馬産出の奨励をし、名馬を多く産出した。このため、徳川家を始め、諸大名が南部馬を買い求めるようになり、全国にその名が知られるようになった。

南部藩では、参勤交代の際には、小荷駄馬や諸侯への進物馬として南部馬を行列に加え、農民に奉仕させた。文化文政期の頃には、参勤交代の行列に従った馬を、行列に奉仕した農民らが、裳束で飾り立て、大小の金鈴をつけて颯爽と出かけるようになった。また、褒美としてもらった馬装束を誇らしくつけて、蒼前神社に参詣するようになった。「ちゃぐちゃぐ馬っこ」の「ちゃぐちゃぐ」とは、この鈴の音をあらわしていると云う。