岩手県藤沢町大籠字下野在家
震災前取材
千葉土佐は、現在の宮城県東和町米谷の森合館の城主だったと伝えられる。千葉土佐は、この地方に勢力を誇った米谷氏の系列である亀卦川千葉系の一族と思われる。
天正10年(1582)、千葉土佐は、亀卦川氏との間に確執が生じたとき、米谷氏およびその弟である西郡氏らに攻められて敗走し、本吉郡の歌津に隠れていたとの記録が残っている。恐らくこの後に大籠に居し、製鉄業に力を入れ始めたものと思われる。
初代の千葉土佐は、永禄年間(1558~69)に、備中から千松大八郎、小八郎の兄弟がこの地に招き、西洋式のタタラ製鉄を始めた。いわゆるこの地の助z屋八人衆の主要人物であり、二代目土佐は、初代の後をうけて製鉄に専念した。
寛永16年(1639)と翌年との大籠における大弾圧で、300人を超える切支丹が殉教したが、助z屋八人衆とその家族は処刑されなかった。伊達藩は製鉄の技術を温存したかったのだろう