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奥州藤原氏の最後の当主、第四代藤原泰衡は、藤原秀衡の次男として生まれた。異母兄に国衡がいるが、正室を母とする泰衡が秀衡の跡を継いだ。

文治3年(1187)10月、秀衡が没すると泰衡が家督を相続した。秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、頼朝と対立し平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた頼朝の弟源義経を大将軍として国務せしめよと遺言し没した。

秀衡は国衡、泰衡兄弟の融和を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡、泰衡、義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。

文治4年(1188)、頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡に義経追討を要請した。翌文治5年(1189年)閏4月、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないとして、院で泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。

泰衡はこれについに屈し、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。同年6月、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。

泰衡は弟の忠衡、通衡を義経に同意したとして殺害し平泉の平和を図ったが、頼朝は家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月、鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。

泰衡は国分原鞭楯を本営とし、現在の福島県国見町の阿津賀志山に巨大な防塁を築き、国衡を総大将として決戦の地とした。しかし、8月11日、激戦の末に平泉軍は敗れ、国衡は討ち死にした。鎌倉軍は、奥大道を多賀城に向かい、途中広瀬川の宮沢の渡しに、大綱をはり待ち構えていた平泉軍を撃破、鞭楯の残敵を駆逐し多賀国府に入った。

この間、藤原泰衡は平泉に逃走し、鎌倉軍の先遣部隊が平泉に迫る中で、平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗れ、平泉の中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵などに火を放ち北方へ逃れた。以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。8月22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は灰となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝や舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。

8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。『吾妻鏡』によると、以下のような旨が書かれていたという。「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らないことです。父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。これは勲功というべきではないでしょうか。しかるに今、罪もなくたちまち征伐されるのは何故でしょうか。そのために累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥と出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。さもなくば死罪を免じて遠流にしていただきたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います。」

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は家臣3名と共に、蝦夷島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れた。

河田次郎は人望篤く、贄の柵に壮大な館を構えており、また近隣にもその武勇は知られており、泰衡を手厚く迎えた。河田次郎は、鎌倉勢との戦は、急な戦であり遠隔地でもあったため参戦せず、世の形勢を観望していた。

しかし、鎌倉方からの追求は激しく、次郎は家臣らと軍議を開きその対応に追われた。泰衡はその物々しさに切迫した状況を察し、9月3日、自ずから館を抜け出し自害して果てた。享年35歳だったという。

6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜代の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬首した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、現在の岩手県志波町の陣ケ岡で、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられさらされた。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて近親者の手により、黒漆塗りの首桶に入れられ、父・秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。

首のない泰衡の遺体は、この地の里人達によって、錦の直垂に包まれ、この地に丁重に葬られた。その後、この墓は「にしき様」と呼ばれるようになり、後年、錦神社となった。比内には鎌倉勢が入り、河田一族は次々に捕らえられ処刑された。贄の柵付近には「ハリツケバ」の地名が残るが、それはこのときの一族の刑場だったと伝えられる。

また、この地には藤原泰衡の夫人を祀ったという西木戸神社がある。夫人は夫泰衡の後を追いこの地に至った。しかしその4日前に、すでに河田次郎の変心によって討たれたことを知った。夫人は嘆き悲しみ、後事を従者に託し自害してしまった。里人たちはこれを哀れみ、夫人のために五輪塔を建てて夫人の供養をした。この地一帯は、泰衡の異母兄の西木戸太郎藤原国衡の采邑地だったことから西木戸神社と呼ばれるようになった。この神社は、この地の東北東約3kmにある泰衡を祀った錦神社の方を向いていると云う。