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盛岡南部藩は、初代藩主南部利直の下、九戸政実の乱の先例などから、家臣の多くを処罰、追放して集権化を進め、盛岡藩の基礎を固めていった。またこの時期には、白根金山を始めとする鉱山開発から財政に恵まれ、近世的支配体制が進展する。元和元年(1615)には盛岡城を築城して城下町を形成し、盛岡藩の基礎を固めていった。

南部利直の跡は、父の死去により三男の重直が継いだ。藩政においては、盛岡城の築城工事を完成させるなど、盛岡藩の基盤固めに専念した。「十和田の大蛇」と異名された父利直の性格を受け継いだようで、苛烈な性格であったと云い、中央集権的な統治を行った。

しかし、財政的に恩恵を受けていた金山の産金量も減少し始め、藩財政は悪化し始めていたが、財政が見直されることはなく、逆に、幕閣に列し譜代大名になることを望み、幕閣の堀田正盛の子を養子とするなどした。また10万石の石高以上の家格を望み、そのために多額の金銭を費やしたと思われる。

この時期、南部重直は、吉原の花魁の「勝山」を見初め身請けした。このことが、盛岡南部藩の参勤交代遅参となり、改易の危機に陥ることになった。この勝山については、巷間伝えられている話と、いくらか時期的なずれがあるが、その重直にも負けない苛烈な性格は同一人物と思われ、ここではそれをもとに話を進める。

勝山は、丹前風呂と呼ばれる風呂屋の湯女であったが、そのころから派手な出で立ちで評判になっていたらしい。髪は自分で考案した上品な武家風の勝山髷に結い、腰に木刀の大小を挿して派手な縞の綿入れを着て歩き回り、江戸の若い女性達のファッションリーダーでもあった。

しかし丹前風呂は違法な私娼窟だったが、建前上は娼婦ではない湯女や飯盛り女は、公娼である吉原の遊女よりも身分は上と扱われていた。しかし丹前風呂は吉原よりも安価に利用できることもあり、幕府は吉原からたびたび出される要請もあって吉原の商売敵となる湯女や飯盛女などの厳しい取締りを行った。

勝山も私娼窟の一斉捜査で捕縛され、そのまま刑罰として、身分の下の吉原に身柄を引き渡されて遊女となった。しかし、もともと人気のあった勝山は、吉原に入ってからはさらに人気が出て、最高位の太夫にまで上り詰め、吉原に登楼してくる諸大名の家臣や豪商によって大名にも知られる存在となった。

勝山は、湯女時代に武家の使用人である旗本奴に人気が高かったこともあり、勝山の好みは男っぽい、武家がかったものが多かった。後に丸髷とも呼ばれる武家風の勝山髷は、上品な印象から武家の奥方などにも好んで結われるようになり、当時の識者を嘆かせたという。

また、現在どてらとも呼ばれる広袖の綿入れ「丹前」も彼女が考案し、贔屓客の旗本奴や侠客に広まった。丹前風呂は血気盛んな若者が常連客に多く、彼らのような江戸初期の若者達に丹前風として広まった。また吉原で行われた「花魁道中」での「外八文字」を踏む道中の足どりは、勝山が考案したものとも云われている。

南部重直は、このような勝山を見初め、寛永初年(1624)に身請けし、寛永12年(1636)に江戸から盛岡に移った。勝山は重直の寵愛を受けていることを良いことに、藩政や人事に口を出し、重直も勝山の言葉に従うことも多かったため、それにより家禄を得たり、逆に処分されたりする者も多く出るようになった。

また嫉妬深い性格であったため、奥に仕えていた八木沢亀子が、重直の寵愛を受けて懐妊していることを聞くと、勝山はこれを虚偽とし、亀子を嫉妬し折檻し責め、重直に亀子の処分をせまった。重直も亀子の懐妊を信じず、虚偽を広めたとして家臣に命じ亀子を殺害してしまった。

そればかりか、重直は参勤交代のために盛岡を出発したのを、勝山はなおも怒りが治まらず、花巻まで追いかけ、重直をなじり、これによって重直は江戸への出発ができず、花巻の滞在が10日間に及んだ。その間、重直をなじり罵ってやまない勝山に、業を煮やした重直は、勝山に手切れ金500両を与えて生国酒田に帰した。殺害された亀子は、検死の結果、懐妊していたことが判明、重直は大いに後悔し、亀子を憐み、「亀子大明神」を造営し祀ったという。

重直は、この参勤交代に10日遅参し、徳川家光の勘気を受け、翌年まで南部藩江戸屋敷にて蟄居処分を受けた。この参勤交代は前年からの武家諸法度に基づき開始された、初の参勤交代であり。南部藩は改易になる恐れもあった。

南部藩は、南部利直いらい中央集権化をすすめ、苛烈な領国支配を行っており、藩主独裁の色彩が強く、家臣が諫言を行うような雰囲気はなく、この参勤交代時の重直と勝山の公私の別を無視した騒動に家臣の誰もが口出しはできなかったようだ。

それでも南部藩は、家格を上げて幕閣に列し譜代大名になろうと、幕閣の堀田正盛の子を養子とするなどの活動を行っており(養子縁組後すぐに18歳で早世)、当然、時の幕閣たちに、莫大な資金が渡っていたと推測できる。そのためもあっただろう、逼塞処分とはなったが、2年ほどで赦免となった。

また重直は、勝山との騒動の中で、懐妊していた亀子を殺害してしまったことなどでの気落ちもあり、幕府へ恭順を示すためもあったのだろう、南部家の後継者選定を、四代将軍・徳川家綱に願い、南部家の存続を願い、寛文4年(1664)9月、享年59歳、江戸で死去した。

重直の死後、南部家の相続をめぐって家臣団の対立が表面化したが、七戸を継いでいた重直の弟重信は、藩政の混乱の外側にあり、幼少期には百姓の子供とも分け隔てなく遊んだとされるなど、家臣からの期待を集めた。南部藩は表向きは一旦改易とされ、南部藩10万石は2万石減封して、盛岡8万石の新藩とし重信に継がせ、同じく弟の直房に八戸2万石を与えて別家を興させ、事実上の分割相続とした。

重信は幼少期の経験からよく世情に通じ、家臣や領民にも質素倹約を説くなど仁政を施した。また領内の総検地を行い、それにより増加した蔵入米を藩士の俸禄米のベースアップに充てて士気の向上を図った。またその後の新田開発により、盛岡藩は元の10万石に復帰し、また枯渇しかかっていた金山に代わる銅山開発を進め、盛岡城の修復、北上川の防災事業といった改革を行い善政を敷き、重信治世下の南部藩は安定した。