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大槌城は、南北朝期に、遠野横田城主阿曽沼朝綱の次男大槌次郎がこの地方を分知され、その居城として築いたとされる。

大槌城は、大槌川と小槌川に挟まれた、比高約130mの南東方向に延びた丘陵頂部に位置する山城で、東西約700m、南北約100mに及ぶ。頂部を主郭とし、東側尾根上に階段状に二の郭、三の郭、四の郭を配した山城である。四の郭の 南東側には、物見と思われる高館が配され、主郭の西側搦手には、大空堀で区画された西口砦、その南には南口砦が配され、さらに丘陵基部は堀切で分断されている。

阿曽沼氏は、鎌倉初期に遠野郷の地頭となり、鎌倉末期に本格的に遠野郷に下向し、除々に釜石、大槌方面に勢力を拡大し、一族を分知したと考えられる。宗家の阿曽沼氏は南朝方として活躍していたが、大槌氏は次第に北朝方として宗家から独立していったと思われる。

永享9年(1437)頃、阿曽沼氏内部には相続をめぐる混乱があった。このような時期、気仙の岳波太郎、唐鍬崎四郎兄弟とともに遠野阿曽沼氏の横田城を攻撃し、大槌孫三郎もこれに加わった。本来であれば阿曽沼氏の力が圧倒していたのだが、相続の混乱で、阿曽沼氏の家臣達は中立の姿勢をとり動かなかった。やむなく阿曾沼氏は、南下し勢力を拡大しつつあった三戸南部氏に救援を求め、南部守行が阿曽沼氏を救援し、大槌気仙連合軍を撃退した。

逆に南部阿曽沼軍は大槌城を包囲、大槌氏はこの城に篭り、その天然の要害を生かして抵抗した。その結果、大物見に出た南部守行が流れ矢に当り戦死し、両軍ともに兵を退き、結局、大槌氏が謝罪する形で和睦が成立した。

戦国末期には、宗家の遠野阿曽沼氏は、広郷の代に遠野十二郷を支配する大勢力に成長し、大槌氏はこの阿曽沼氏の傘下に組み込まれ ていたが、阿曽沼氏は、小田原に参陣することができず、奥州仕置きによって南部氏に組み込まれた。天正19年(1591)の九戸の乱では、大槌孫八郎広信は、阿曽沼広長とともに三戸城主南部信直軍に従軍している。

しかし、このとき、南部利直は謀略をめぐらし、阿曽沼氏一族の鱒沢氏や平清水氏に留守を襲わせ、脱出途中の阿曽沼広長の妻子を殺害し、遠野へ帰る広長を阻止し、阿曽沼氏を遠野から追放した。広長は、伊達氏の支援を受けて何度か遠野奪還を試みたが失敗し、広長は悲憤のうちに生涯を終え、阿曽沼氏の嫡流は断絶した。

このとき、大槌孫八郎広信はこの広長を支持し、広長とともに遠野郷に侵攻したが、しかし南部氏の支援を受けた鱒沢氏 らに敗れ大槌城に退却、大槌城は南部軍に包囲され降伏し、自らは伊達領に逃れた。阿曽沼氏追い落としに成功し、南部氏の下で遠野を領した鱒沢氏や平清水氏らは、結局はその後、謀反の嫌疑などをかけられ、滅亡に追い込まれた。

大槌氏の跡は大槌孫八郎政貞が継ぎ、関ヶ原の戦いの際には、稗貫和賀一揆で南部利直に従い活躍、大槌城に戻ることを許された。政貞は、この地の振興をはかり、三陸海産物の江戸向け出荷の橋渡しをして商路を開拓、塩蔵の南部鼻曲がり鮭はその代表的な商品だった。

また政貞は、馬術の名手で、剛勇の誉れも高く、利直に従い江戸に出府したとき、将軍の荒馬を乗りこなしたという。利直にとってこのような有力外様武将の評判が上がることは、愉快なことではなく警戒された。このため、政貞は謀反の疑いをかけられ、元和2年(1616)、利直に「人を容易に乗せぬ馬がある」と誘い出され、刺客に襲われて殺害された。ここに大槌氏は滅亡し、280年の歴史を閉じた。