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寧々は、盛岡南部藩主の南部利直の姪にあたり、八戸南部第二十代当主直政の夫人だった。慶長19年(1614),八戸の寧々の元に凶報が飛び込んできた。夫の八戸城の城主である八戸直政が、越後高田で病没したというものだった。直政は徳川秀忠の命で,家康の六男、松平忠輝の越後高田城造営のための築城奉行として高田に赴いていた。松平忠輝には伊達政宗の愛娘の五郎八姫が嫁いでおり,舅として伊達政宗も高田城の造営に関わっていた。

直政は、以前から八戸が盛岡から分離独立した藩になることを話しており、この城普請の功で,それが実現するかもしれないという思いを持っていたようで、伊達政宗も、無事に大役を勤め上げたら、徳川秀忠に推挙してくれるようなことを言っていたようだった。寧々は叔父の南部利直のことを思うと,そう簡単にことが運ぶものとは思えなかったが,八戸の分離独立は家中のものたちの宿願であり,その可能性が出てきたことには素直にうれしく思っていた。

それが突然の訃報である。家中の重役の比巻沢市兵衛を高田に遣わした。何故,どのような状況の下で没したのか,わかる限りのことを仔細に確かめてくるように念を押した。胸にざわつくものがあった。

三日後,城普請のために高田に行っていた八戸家中の一人が直政の遺髪を持ち、取り急ぎ戻ってきた。それによると,夕食をとった後に苦しみだし,そのまま明け方に息を引き取ったらしかったが,それ以上に詳しいことはわからなかった。八戸家中,悲しみの中で葬儀が執り行われた。喪主はニ歳の嫡男久松(ひさまつ)だった。小さい手を合わせるその姿に涙せぬものはなかった。

葬儀が済んで四,五日後,比巻沢市兵衛が高田から戻ってきた。旅装も解かぬまま寧々の許にあがり,位牌に手を合わせた後人払いをした上で話し始めた。
「この度の殿のお亡くなりになったことについては,あまりに不審なことが多すぎまする」
市兵衛の話によると,
「夕食後に急に吐き気をもようし,吐くだけ吐いた後,少し楽になったと床につき,その後呼吸困難になり,夜半には意識ももうろうとなり,そのまま朝に亡くなった」
「食中毒と診立てた薬師とその夜の直政公の夕食を整えた小者が,次の日には姿をくらましてしまっている」
「別な医師を訪ね聞いたところによると,直政公の症状は,鳥兜(とりかぶと)の毒を服した時の症状に似ている」
そして続けていった。
「直政の殿は,何者かに毒殺されたのではと思われまする」

寧々はしばらく声が出なかった。胸のざわつきが肌をつき,体中が総毛立つ思いだった。体が震えて止まらなかった。やっとの思いで市兵衛に尋ねた。
「誰がそのようなことを」
「誰の差し金かは分かりませぬ。姿を消した小者と薬師の行方を方々捜させましたが,見つかりませなんだ。毒殺されたことは間違いないものと思われますが,毒殺されたという確たる証拠は何もございません。口惜しい限りでございます」
市兵衛はここまでこらえてきたのだろう。男泣きに声をあげて泣いた。寧々は驚きで涙は出なかった。体が震えて立つことができなかった。

八戸南部は,南北朝時代以来,南部の惣領的立場を三戸南部とともに堅持していた。しかし豊臣秀吉の小田原攻めの折には,三戸南部の南部信直が小田原に参陣し,八戸南部の八戸政栄は,信直と諮り、九戸政実らの勢力に備えこの地に残り、信直の小田原参陣を支えた。その結果,北奥羽は三戸南部の所領となり,南部の惣領権は南部信直が握ることになった。

三戸南部もこれまでこのことには配慮し,表向きはともかく,極力対等な扱いを心がけていた。南部信直はその一人娘の利直の姉の千代子姫を八戸政栄の嫡男の直栄に嫁がせ,九戸政実の大乱においても,両者の協力関係は崩れることはなかった。

八戸直栄と千代子姫の間に生まれたのが寧々であり,その後男子が生まれないままに直栄は病没し,直栄の弟の八戸直政と寧々が結婚し,直政が八戸南部の流れを継いだ。しかしながら,寧々の叔父の南部利直の代になり,利直は宗家としての立場を強め,それに伴い八戸家中には時折波風が立つようになった。

八戸直政はその都度三戸南部とのこれまでの良好な協力関係を話し,その重要さを説き家中のものをなだめていた。しかしながら三戸南部との協力関係を損なうことなく,八戸南部が分離独立できれば,それにこしたことは無いとの思いは強く持っていた。そしてそれは家中の共通の思いと言っても良かった。

八戸南部の家中では,連日主だったものが集まり,善後策が話し合われていた。その後継を嫡男の久松とすることには誰も異存は無かったが,ニ歳の久松君の後見を誰が行うかが問題だった。そのような折も折り,八戸家中を更なる悲劇が襲った。

近くの川で遊んでいた久松が川で水死したのだ。一緒についていた侍女も水死体で見つかった。侍女のひざの部分は紐で縛られており,覚悟の自殺のように見えた。状況は,久松が誤って川に落ち水死し,侍女がその責任を感じて自殺した様子だった。

しかし八戸家中のものは誰もそうは思わなかった。この相次ぐ二つの事件は,南部の完全支配を目論む南部宗家の謀略であることが,人から人へ伝わり,確実なものは何も無い中,それは確信に近いものになっていった。

この状況の中で,寧々は悲しんでいることは許されなかった。当主の八戸直政と嫡男の久松が相次いで亡くなり,後継とすべき男子はいなかった。八戸南部家存亡の危機であった。南部利直からは,今のところ後継の問題については何も言ってはこなかった。

寧々は,南部利直の実姉でもある母の千代子とともに盛岡の利直のもとに上がった。利直は一通りのくやみの言葉を口にした後,九戸の乱の折の八戸直政の武勇を話したりしたが,千代子も寧々も顔を崩すことも無く,相槌すら打たなかった。

少し気詰まりな沈黙のあとに,利直が切り出した。
「本日は,八戸の跡目のことでまいったのじゃな。して,どのようにお考えなのか」
寧々が答えた。
「この寧々には,夫直政との間に二人の姫がおりまする。しかるべき時期が来ましたら,この姫のうちのいずれかに,一族のものから婿を迎え,後を継がせたいと思うておりまする」
「姫はまだまだ幼い。誰が後見するのか。八戸はこの南部にとっては重要な立場にある。それを長い時間空白にすることは出来ぬ相談じゃ」

利直は千代子の方に向き直り話を続けた。
「それよりも姉上,どうかのう,寧々にしかるべき者を婿として迎えたら。毛馬内左近(けまないさこん)という者がいるが,あれなら南部の一族でもあり…」
千代子は身を乗り出した。母の立場からすれば,不幸の続いている娘を思う心がそうさせたのだろうが,寧々はきっぱりと言った。

「その事は謹んでお断り申し上げます。この寧々は盛岡南部の娘ではござりませぬ。八戸の寧々でござります。八戸家中の者の喜びがこの寧々の喜びでございます。そのお話では家中のものは喜びませぬ」
そう言うなり座を下がった。母の千代子が慌ててそれを追った。
その夜の内に寧々は長い髪を切り落とし尼僧姿になり,利直の意のままにはならぬことを示した。翌日この寧々の姿を見た利直は怒ったが,それでも口を一文字にし利直を睨みつける寧々に呆れて,最後には折れた。
「勝手にするが良い。しばらくはその方が女亭主で八戸を差配せよ」
「ありがたき幸せ。勝手にさせていただきます」

元和4年(1618年)4月,八戸にも春の日差しが差すようになってきた。ようやく悲しみも癒え,八戸南部を守るために,家中一丸となってことに当たっていた。しかしながら盛岡の南部利直は南部全体の支配をあきらめたわけではなかった。

南部利直の絶対的な中央集権の思いは強く、八戸南部の所領の下北田名部の地を「治安が落ち着くまで、当分の間預かる」として取り上げた。また、利直は、その後も清心尼の娘に対して次男政直などを送り込み、支配を強化しようとしたが、利直は、その政直を毒殺しようとしたとの噂もあり,取りあえずは八戸は寧々を中心に結束しそれまでの立場を保っていた。清心尼は八戸南部の一族の新田氏から直義を婿養子に迎え、二十二代を継がせた。そのような中、寛永4年(1627)、南部利直は八戸南部氏の遠野への国替えを命じた。

遠野の地は、かつて阿曾沼氏が支配していた地で、南部氏は、これを謀略を用いて収奪したともいえる地で、中央集権化をねらう盛岡南部の支配に対し治安は定まらなかった。このため盛岡南部は、この地に八戸氏を配することとしたが、度重なる盛岡南部のごり押しに対し、八戸の家臣には、これも謀略であると反発し、家臣たちの怒りは頂点に達し、一戦も辞さないとする声もあがった。しかし清心尼は、「ここで利直に戦を仕掛ければ、主君に背いたという口実で、九戸政実のように幕府に取り潰されてしまう」と八戸氏のために我慢するよう家臣を諭し、さっさと遠野入部の準備を進め家中の不満の声を収めた。

八戸南部二十二代直義は、二代将軍徳川秀忠の上洛に際し、利直に従い名代として大役を果たすなど利直によく仕え、利直から信頼を得た。直義は南部藩の筆頭家老として盛岡にいることがほとんどだったため、遠野の統治は実質、清心尼が行った。遠野での清心尼の治世により遠野の政情は安定したものになっていったことで、それ以上の盛岡との対立は起きなくなった。

清心尼は正保元年(1644)6月、横田城において59歳で没した。