伊達氏の始祖の、常陸入道念西(伊達朝宗)の本領は、常陸国中村であり、中村氏を称していた。朝宗の長男為宗は、常陸の本領をそのまま受け継いで、次男の宗村が陸奥の伊達領を受け継ぎ伊達氏二代となった。
青森県弘前市円明寺には「千歳丸のちの経若丸は義経の子であり、千歳丸を常陸坊海尊に託し、伊達氏の祖の常陸入道念西に預け、後に養子にした」との伝承がある。
源義経は、衣川の戦いで藤原泰衡の軍に攻められ、妻子ともども持仏堂で自害したとされている。しかし、一説には、藤原秀衡の意により、源義経の男子の千歳丸は、常陸坊海尊により、義経の縁者にあたるとされている常陸介念西のもとに連れ出されたと伝えられる。
栃木県真岡市の遍照寺や中村八幡宮の記録によれば、中村朝定の出自について、朝定は幼名を経若と言い、源義経の遺児であるという。経若は、念西の長男為宗によって養育され、成人後、中村蔵人義宗と名乗り中村氏の跡を継ぎ、後に改めて中村左衛門尉朝定と名乗った。
朝定(義宗)が成人し中村氏を継ぎ中村城主となると、朝定(義宗)は、中村領における治水に励み、鬼怒川よりの水路を開き治世に尽くした。中村領民は朝定が亡くなった後に中村城近くに朝定を慕い『中村大明神』として祀った。
承元3年(1209)、鎌倉3代将軍実朝のとき、中村朝定は義宗と名乗っていたが、朝定とその子縫殿助父子を鎌倉の監視下に置いた。そして幕府は、義経に通ずる義宗の名を、養父朝宗より1字をとって朝定と改めたという。
常陸坊海尊が源義経の子を藤原秀衡から託され、常陸介念西(伊達朝宗)に託したことが真実かどうかは別として、鎌倉幕府の中枢部も懸念を持っていたのは事実のようで、また伊達氏自身も、義経とのつながりを否定していないように思われる。
深読みすれば、源頼朝の平泉征討の際の、阿津賀志山の戦いのときの源義経の舅にもあたる信夫の庄司佐藤基治軍と念西(伊達朝宗)軍との石名坂の戦いの不可思議さにも関連しているのかもしれない。
結局中村朝定は、承元3年以後、鎌倉に留め置かれ、下野中村への帰還は叶わなかった。中村氏が旧領を取り戻すのは鎌倉幕府が滅亡した朝定より5代後の中村経長の代まで待つことになる。
中村朝定が鎌倉幕府により終生その管理下に置かれたため、それより数代にわたり中村城は城主不在となっており、中村領は小栗氏が管理していた。
中村経長は、幕府滅亡後は足利尊氏に与し、建武2年(1335)の中先代の乱では相模川の戦いで北条時行の軍を撃破し、本領の中村荘を回復し再び中村城主となった。
南北朝時代に入り、足利尊氏が新田義貞軍に大敗を喫し九州に落ち延びると、中村経長は中村城において孤立した。このとき、宗家に当たる伊達行朝や同族は北畠顕家の軍にあったため、経長は伊達行朝の仲介で南朝方に属することになった。
建武4年(延元2年、1337)8月、北畠顕家軍が白河関を越えて下野に入ったさいに経長は中村城より自軍をすすめ伊達行朝軍とともに足利方の小山城を攻略し陥落させた。12月には利根川の戦いにおいて、安保原の戦いにおいてそれぞれ足利義詮軍を討ち破った。その後宇都宮公綱が加わり、経長は伊達行朝とともに北畠顕家軍勢にあって鎌倉を攻略した。
しかし、北畠顕家勢は暦応元年(延元3年、1338)6月、石津の戦いで敗れ、顕家の他、名和義高・南部師行らの西上軍の有力武将も戦死、南朝軍の主力は壊滅した。これにより、南朝方は大打撃を受け、関東、奥州においても北朝方が有利な戦いを進めていくことになる。
北畠親房の命を受け、中村経長、伊達行朝は、宇都宮・芳賀軍を討ち破ったりし南朝勢力の糾合をはかるが、南朝勢の衰退はいかんともしがたく、康永2年(興国4年、1343)には北畠親房は吉野へと帰還してしまった。経長と行朝は孤立無援となり、行朝は自領へ戻り、経長も中村城に帰還した。
しかし鎌倉を攻め落とした際に共闘した宇都宮公綱はその武名を貴び、中村の領地を宇都宮領にするも、経長を家臣とし中村城を任せた。中村城は宇都宮氏の臣として戦国時代まで経長以降の中村氏累代が居住することになる。
その後、宇都宮氏は豊臣秀吉により改易され、家臣の多くは村役人などになり宇都宮の地で帰農した。中村氏十五代時長もそのまま留り、慶長2年(1597)に没し中村氏は断絶したのだろう。
中村朝定以降の中村氏は、伊達氏との血脈はなかったようだが、伊達氏の祖の伊達朝宗(常陸入道念西)の養子であり、伊達氏の本貫の地というべき下野中村を代々領した。当時の鎌倉幕府の中では存在感が強いとは言えない伊達氏にとって、軍神ともいえる義経の流れが伊達氏の系譜の中にあることは伊達氏にとって誇りだったのかもしれない。
江戸期に入ってからも、伊達氏は義経の流れを誇りとしていたようで、高館があった丘の頂上には、天和3年(1683)、仙台藩第四代藩主の伊達綱村が、義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経の木造が安置されている。
またその後、伊達家譜代の重臣の新田氏の成義は、その母が、仙台藩第四代藩主伊達綱村の乳母(白河氏室)の娘であったことから綱村に重用された。元禄3年(1690)、新田義貞の後裔と称する徳川将軍家に遠慮するとして、新田氏は苗字を改めるよう命じられ、この時、成義は綱村より伊達氏の出自である中村の名跡を下賜された。