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南シナ海問題で、中国に対して危機感を持っていたアメリカを始めとしたG7諸国や東南アジアの諸国の多くは、日本を支持する声明を相次いで出した。しかしそれでもなお、日本の左翼系野党などは、ここまでの一連の「戦争」は、憲法9条に違反するもので、日本は直ちに尖閣諸島から軍を引き、中国と、平和的な尖閣の共同利用を話し合うべき、と主張したが、中国の卑劣な侵略行為に対して、日本国民の大多数は怒り、それらの主張を良しとするものはごく僅かだった。

もちろんこれで済むわけはなかった。中国は「日本が我が核心的領土を武力により強奪した、」とし、日本との国交断絶と、在留邦人の追放、資産の凍結を行うことを宣言し、「東京や沖縄を火の海にしても奪還する、」と脅迫してきた。中国にしてみれば、中国の「断固とした決意、」を見せれば、水面下で日本の親中派に働きかけている「尖閣共同利用」に応じてくるのでわ、とのヨミがあった。しかし積極的平和主義を掲げ、中国の横暴に対し、アジア諸国にも働きかけてきた日本は、かつてとは違っていた。専守防衛を基本とする日本にとっては、中国の「脅迫」はある意味で好都合であり、日本は「中国の航空機、艦船が、日本の領海領空を侵犯した場合は、日本を攻撃する意図があるものと判断し攻撃する」と警告、通告した。

中国海軍の動きが激しくなった。しかしフィリピン北部付近に進出しているアメリカの第七艦隊が抑止力となり、思うような行動がとれないようだった。そのような中、最初に動いたのは青島に司令部を置く北海艦隊だった。旗艦「瀋陽」以下11隻のミサイル駆逐艦とフリゲート艦、及び原潜を含んだ数隻の潜水艦が出撃した。これは稼働率を考えれば、北海艦隊全館出撃といって良いものだった。

北海艦隊は南下し、尖閣海域に向かうと思われたが、済州島沖で進路を東にとり、日本海に向けて進み始めた。日本にとってこれは予想外だったが、中国の強気と弱気が交錯したものと判断した。アメリカや日本の主力艦隊との全面衝突はさけながら、日本本土への威嚇により、日本からの譲歩を引き出そうとするものと考えられた。日本はこれに対し、日本海に展開していた大湊の第三護衛隊と舞鶴の第七護衛隊の「ひゅーが」「みょうこう」以下8隻の護衛艦を急行させた。またすでに日本海に展開していた潜水艦を対馬沖に集結させた。

この宣戦布告なき戦争では、日本は中国艦艇が一方的な攻撃や領海侵犯などをしなければ、攻撃することは難しかった。それは中国も同様で、世界中が注目している中で、水上艦艇が一方的に攻撃をしかけることは難しかった。そのようなことから日本は、中国潜水艦からの攻撃が、シュになるだろうと考え、対潜哨戒機や、対潜ヘリを投入し、水上艦に先行する中国潜水艦の捕捉に努めた。中国の潜水艦は静謐性が小さく、海上自衛隊はすでにその音紋をすべて把握しており、出撃した中国潜水艦は、当初からすべて補足していた。しかし広く深い日本海に入られたら面倒になることが予想された。対馬沖では、日本と中国の潜水艦同士の暗闘が繰り広げられた。

日本の潜水艦は、「ひゅうが」からの対潜ヘリなどの支援もあり、常に先手を取り、中国の潜水艦を追い詰め。原潜1隻に対しては、信管を外した短魚雷を命中させた。中国潜水艦は図上ではすでに半数は撃沈されており、日本の潜水艦を捕捉できずパニックに陥っていた。その混乱の中で、中国潜水艦は、対馬西方90kmの日本艦隊に対して、4発の対艦ミサイルを発射したが、これは日本艦隊によってなんなく撃墜された。これに対し日本の潜水艦隊と「ひゅうが」の対潜ヘリ、筑城基地などに待機していた航空機が一斉に中国潜水艦に襲い掛かり、翌日までに7隻を撃沈、原潜1隻は火災を起こし、浮上し降伏した。

この中国の潜水艦による攻撃と、またそれに対する日本の強硬な反撃は、中国にとっては予想外だったようで、中国艦隊は混乱に陥り、統率のとれないまま遠距離から日本艦隊や潜水艦に対して攻撃を始めた。しかし結局は日本艦隊からの手痛い反撃を受け、旗艦「瀋陽」を始めとした艦艇4隻を失い、青島に向けて退却した。

この圧倒的な中国の敗北は、中国指導部に大きな衝撃と混乱をもたらした。中国内では各地で暴動が起きはじめ、各軍区にも不穏な動きが見られるようになった。中国政府は、求心力を高めるためにも、尖閣諸島への再度の侵攻を企図し、アメリカの親中派と密かに接触し、「中国はアメリカと敵対するものではなく、尖閣問題は中日二国間の局地的な問題」とし、南シナ海の一部からの撤退を条件に、アメリカが介入することがないように求めた。しかしアメリカはすでに、この機会に南シナ海問題を一気に決着する方向で腹を固めていた。

日本は、中国が尖閣諸島に対して二度と野心を持たないようにするためには、魚釣島を軍事要塞化するしかないとし、港を整備し、地下壕を整備し、対艦ミサイルと対空ミサイルを設置し、部隊を配置した。

結局この対馬沖海戦は、中国共産党政権の大崩壊の序章となった。