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尾去沢鉱山は、和銅元年(708)に銅山が発見され、産金が東大寺の大仏や、中尊寺で用いられたとの伝説が残っている。江戸時代には南部藩により、「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と歌われる鉱山の一つとして開発が行われた。

尾去沢鉱山の発見には、次のような伝説が残されている。

尾去村の奥に、大森山という大きな山がある。文明13年(1481)、この山から毎晩、光るものが飛んできて、村の上を飛びまわり、村人は大変恐ろしい思いをしていた。その光るものは、ある日には昼間に村に飛んできた。それは、羽を広げると、左右の長さが十余尋(約20メートル)もある大きな鳥だった。

羽音もすさまじく飛び回り、その形相は、人を取って食うばかりの恐ろしいものだった。口からは金色の火を吹き出し、そのなき声は、まるで牛がほえるようで、山々にひびき、山がくずれるような物すごい音だった。 夕方になると村中を飛びまわり、田畑を荒らしていった。村人は、恐ろしく生きた心地がしなかった。

村人たちは、村の修験者の、慈顕院の別当に頼み、毎晩、天に向かって「天の日の神様、月の神様、どうか、この恐ろしい鳥を退治してください。」と拝んでいた。何日間か拝んでいると、あるとき、大森山のほうから、あの化け物鳥らしい声が聞こえてきた。その声は、苦しくて悲しがっているような、あるいは泣いてるような叫び声に聞こえた。その翌日には、化け物鳥は飛んで来なかった。

村人たちは不思議に思い、鳥の泣き声がした方に恐る恐る行った。すると、赤沢川の水はいつもとちがって、朱を流したように赤く染まっていた。この赤く流れている水をたどって登って行くと、大きな滝の下に、あの化け物が赤く染まって、うつぶせになって死んでいた。

村人たちは、この鳥を引っぱり起こして、おそるおそる見ると、広げたはねの左右の長さ十三尋(約24メートル)もあり、頭は大きな蛇のようで、足はまるで牛の足そっくりだった。鳥の毛は、赤と白で、ところどころに金の毛と銀の毛が生えていた。腹をさいてみると、胃袋の中には、穀物や魚、虫・鳥・草木とかはなんにも入ってなくて、金・銀・銅・鉛の鉱石がいっぱい入っていた。

この様子を見た村長は、「最近、夢に白髪の老人が6回も現れ、新しい山を掘れと告げて言ったが、どこの山を掘れば良いのかわからずそのままになっていた。この鳥の胃袋から金・銀・銅・鉛、が出てきたのは、これこそ、 この山を掘れと言う神様のお告げに間違いない。」といった。そこで、この山のところどころを掘って見ると、四色に光り輝く金・銀・銅・鉛の鉱石がいっぱい出てきた。

村人たちは、この大きな鳥をだれがやっつけたのか不思議がった。もしかすると山の神様が退治したのかと思い、山や谷を探しまわって見た。すると、大森山のふもとに獅子の頭のような大きな石が土の中から出ていた。ちょうど、口に見えるところに血がいっぱいついていた。

村人たちは、「あの化け物鳥をやっつけだのは、この獅子頭の神様石だべ。ここに獅子の頭が土の中から出ているのは、この大森山は獅子の体で、この山につながっている山々は、この獅子の手足だべ。」と話し合った。そしてこの地にお堂を建て、あの化け物鳥もここに埋め、村の守り神の大森山獅子大権現として、お祀りした。


江戸末期、財政危機にあった南部藩は、御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人の村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。明治元年(1869)、採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で大蔵大輔の職にあった井上馨は、明治4年(1871)、この証文を元に村井から尾去沢鉱山を差し押さえ村井は破産した。

井上は尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は司法省にこれを訴え出、司法卿であった江藤新平がこれを追及したが、佐賀の乱の混乱などでうやむやになった。井上は大蔵大輔を辞職したが、鉱山はそのまま井上の所有のままとなった。

井上は、明治初期の混乱期に、三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為は世間から貪官汚吏の権化と批判された。それでも政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田とともに、明治6年(1873)「東京鉱山会社」を設立、翌年には鉱山経営に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を設立、これが三井物産へと発展していった。

日本の近代化に寄与し、戦後も復興の礎となった尾去沢鉱山だが、不採算と銅鉱石の枯渇から、昭和41年(1966)に精錬が中止され、昭和53(1978)に閉山した。現在は、跡地に選鉱場、大煙突等が残されており、一部は、坑内や鉱山施設の見学や砂金取り体験のできるテーマパーク史跡となっている。