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最上義守は、天文の乱において伊達氏からの独立性をある程度回復したものの、一族間の争いなどから、その勢力は限定的だった。元亀元年(1570)には、当主義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じ、これに乗じた伊達輝宗は、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく最上領内に出兵した。天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況の中、義光はこれらの攻勢を巧みに退け、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。

しかし家督相続を巡る一連の抗争が決着した後も、最上氏庶流の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久は、中央の実力者・織田信長に出羽守への推任を願い出るなど、この時点ではまだ村山の支配すらもおぼつかない状態だった。最上義光はこの頃から家中法度を整備し、かつての羽州探題・最上氏の勢威を回復させようとしたようだ。

天正5年(1577)には、天童頼貞を中心とした最上八楯と戦い、天正6年(1578)には、伊達輝宗の支援を受けた上山満兼と戦い、さらに、天正8年(1580)、義光は満兼の重臣・里見民部を調略し、満兼を殺害させ上山城を手中に収めた。天正9年(1581)には、まずは天童氏の姻戚である小国城の細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り小国城を攻略。夏には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略した。

天正11年(1583)、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。不意を突かれた義氏は自刃した。

天正12年(1584)、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺しただちに谷地城を攻略した。続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。また、最上八楯の一人・延沢満延を調略し、さらに東根頼景の重臣を内応させて東根城を攻略し、天童城を攻め、天童頼澄を追い詰め、頼澄は仙台の国分盛重を頼って落ち延び、最上義光は村山郡全域を支配下に収めた。

最上義光は、村山全域を手中に収めたが、その周囲は、義光同様、戦国の世を勝ち抜いてきた大勢力がひしめいていた。北には横手の小野寺氏、西の庄内には、上杉氏を背景とした大宝寺氏、南の置賜には天文の乱以前の勢力を取り戻しつつある伊達氏がいた。

天正14年(1586)、小野寺義道は最上氏が兵力を庄内に向けると考え、以前、最上氏に奪われた鮭延城奪還に向けて、兵を有屋峠に向けた。最上義光は、緒戦は敗北するも、その後、嫡男の義康と楯岡満茂らが反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。小野寺氏とはその後も小競り合いを続けるが、関ヶ原の戦いのときに、小野寺義道は、それまでのいきさつから最上義光と戦い、このため西軍とみなされ、戦後改易された。

大宝寺義氏の跡は、弟の義興が継いでいたが、上杉氏の重臣の本庄繁長の二男の義勝を養子としていた。天正13年(1585)、義興が最上方の清水城を攻めると、最上義光の意を受けた東禅寺氏ら庄内の国人が一斉に蜂起し、最上義光は軍を率いて六十里越街道を踏破し庄内に侵攻した。大宝寺義興は本庄繁長が新発田攻めで援軍を出せない中で、尾浦城に籠城したが、一年の籠城による奮戦の末、天正15年(1587)、居城・尾浦城は陥落し、ついに義興は自害した。義興の養子で、本庄繁長の二男である義勝は、辛くも実父の越後村上に逃れ大宝寺氏の命脈は辛うじて繋がれた。

翌天正16年(1588)正月早々、本庄繁長は庄内奪還の兵を挙げ、庄内への進攻を開始した。最上義光は、伊達政宗に対する戦略上、これに対して十分な対処はできず、東禅寺義長や、尾浦城将の中山朝正に警戒させていたが、本庄勢の意気は盛んで、国境の最上の支城が攻め落とされ庄内攻略を進め、同年八月、十五里ヶ原において、最上・庄内勢と本庄・越後勢は激突した。最上・庄内勢は善戦したが激戦の中で東禅寺義長は討ち死にし敗走した。急報に接した最上義光は直ちに大軍を率いて六十里越えを急いだが、間に合わず途中で兵を引いた。

庄内をめぐり、その後も最上氏と上杉氏の争いは続いたが、上杉氏は石田三成経由で秀吉に接近、義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認され一旦決着した。

米沢の伊達氏は、相馬氏とことを構えており、最上義光の妹の義姫と伊達輝宗の婚姻により、相馬氏との争いに専念していた。しかしそれでも最上義光は、伊達氏を警戒し、大崎氏と伊達氏との大崎合戦では、大崎氏に援軍を送り、また葦名氏や佐竹氏らと謀って、成長著しい伊達政宗を包囲する戦略をとったが、それも天正十七年(1589)の摺上原の合戦における葦名氏の敗北により水泡に帰し、結局翌十八年には豊臣秀吉の小田原征伐となり、豊臣政権に飲み込まれることになった。