伊達兵部宗勝とともに亀千代の後見であった田村右京宗良(伊達忠宗三男)は、人柄は温和であり人望があったが、気弱な一面もあり、才気活発な兵部宗勝による専横を許していた。伊東七十郎の事件により奉行職の伊東氏が粛清されると、兵部宗勝に対抗しうる人物は、藩内最高の禄高を持つ、涌谷の伊達安芸宗重ただ1人になっていた。

この伊達安芸宗重と、登米の伊達式部宗倫(忠宗五男)との間には領地をめぐる争いがあった。この争いのさなか、藩主の亀千代が、寛文6年(1666)寛文8年(1668)と二度にわたり毒殺されそうになった。これらは、伊達兵部が企てたとも伝えられる。さらに同年には、兵部宗勝暗殺計画が発覚し、首謀者・伊東七十郎重孝が一家ともども処刑された。こうした一連の騒動の中で、安芸宗重を中心とした勢力の、兵部宗勝への反感はますます高まっていった。

仙台藩は地方知行制であり、特に伊達安芸宗重を含む一門は、万石単位の知行を領し、半ば独立大名の体をなしていた。兵部宗勝派と目されている原田甲斐宗輔らは、藩の将来の経済体制を考え、蔵米知行制へと移行することを考えていたともされる。しかし安芸宗重らは、藩主後見人とはいえ、あくまで代理人の立場である宗勝が、藩内の有力者たちの合議なども行なわず、自らの一派のみで藩政を取り仕切ることは、宗重を始めとする藩内の有力者には容認し難かった。

寛文9年(1669)、兵部宗勝ら藩首脳は、安芸宗重と宗倫の領地争いの争点となっていた地域の3分の2を、伊達宗倫の登米領として裁断を下したが、安芸宗重はこの裁定を不服として、再吟味を訴えたが兵部宗勝らはこれを拒否した。

事ここに至り、安芸宗重は、宗勝一派の一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固めた。宗重の考えを知った茂庭周防姓元や片倉小十郎景長らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして宗重の上訴を諌止したが、安芸宗重の意思は固く、結局寛文10年(1670)12月、宗重の申し条を記した上訴文が幕府に提出された。この告発を受けて幕府は江戸での詮議を決定した。

寛文11年(1671)2月から3月にかけて、老中酒井忠清邸などで詮議が行われた。安芸宗重は、領地争いでの正当性の主張や、仙台藩の現状などを訴え、仙台からは原田甲斐宗輔・古内志摩義如・柴田外記朝意の3奉行が召喚され、彼らの証言と安芸宗重の申し条とが併せて吟味された。その結果、安芸宗重・古内志摩・柴田外記の弁明内容がほぼ一致したと認められ、原田甲斐の弁明が退けられ、兵部宗勝一派のこれまでの施政が咎められる情勢になった。

万事窮した原田甲斐は、酒井邸控えの間で突然伊達安芸宗重に斬りつけ、不意をつかれた宗重は深手を負ってその場で絶命した。騒ぎで駆けつけた古内志摩・柴田外記が原田甲斐を斬り、原田甲斐も死亡した。

原田家は騒動の責めを負い断絶となったが、当事者の安芸宗重や原田甲斐が判決を前にして死亡したことなどもあり、また藩主綱村は幼く責任はないとし、仙台藩はお咎めなしで終わり、藩領62万石は保たれた。

大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった兵部宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に兵部宗勝は、年長の後見役でありながらみだりに刑罰を科して仙台藩政の混乱をもたらし、果ては江戸での刃傷沙汰という不祥事を招く原因を成したとして、一関藩は改易となった。宗勝自身は土佐の山内家預かりとなり、妻子もそれぞれ、豊前、伊予藩など預かりとなり、一関伊達家は宗勝一代で御家断絶となった。兵部宗勝は、土佐の小高坂の配所で余生を送り、延宝7年(1679)11月に没した。享年59歳だった。

この伊達騒動は、現在も様々に論じられており、特に歌舞伎の「伽羅先代萩」では、原田甲斐は稀代の悪役とし描かれているが、山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」では、仙台藩の隠れた忠義の士として扱われている。これらについては、後日、稿を改めて取り上げるつもりだ。