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大湊を後にして、国道338号線を西に25kmほど走ると、「蛎崎」の地名を見つけた。辺りを注意しながら車を走らせると、国道脇に説明板があり「傘松」を見つけた。蛎崎城跡はその傘松のところを入って行くようだ。すでに午後五時を回っていた。それでも幸いなことに、夏の日は長く、午後に入ってからは天気も良くなっており、写真の撮影にも十分な光量があった。

傘松は、この蛎崎城の築城時期のものらしいが、残念なことに立ち枯れ状態だ。太枝が伐られ、治療が試みられたようだが蘇生は難しいかもしれない。この傘松の脇を蛎崎城に上った。

蛎崎城は、南北朝期からこの地の中心だったはずで、北部王家の伝承にも関わりが深かったはずだ。この地で起きた蛎崎蔵人の乱は、護良親王の血筋を受け継ぐ北部王家を実質的に手中にし、すでに北朝方で固定した北奥羽の地の統一を夢見たようだ。当時の南朝方の雄の南部氏に反し、下北半島で兵をおこし、津軽半島、八戸、七戸近辺、さらに蝦夷地まで巻き込んだ乱を起こした。しかし善戦むなしく敗れ去り、その後の歴史の流れの中に埋没してしまっている。

蠣崎城は、北奥羽の雄の南部氏に反した城にしては小さな城の様に感じた。主殿はこの地の小学校跡にあったとされ、いわゆる根小屋式の城館のようだ。厳しい自然環境のこの地で、蛎崎氏は反抗の狼煙を上げ、安東氏やアイヌ兵の助力も得て戦ったようだ。しかし野望は潰え、蝦夷地に逃れた。頂上の見張郭跡には、蛎崎氏を偲ぶ方々が後世に建てたのだろう、「錦帯城主蛎崎蔵人供養碑」が、はるか津軽湾の彼方を向き立っていた。

夏の長い日も暮れかかっていた。私は旅の中で、一日の始まりと終わりは、できるだけ美しい風景の中に身をおきたいと思っている。この日は、その行程から、下北半島の西側で日没を迎えるだろうと考え、九艘泊で夕日を見ようと考えていた。

国道338号線を西に走り、脇野沢から県道を南に入り、海岸線に沿って走る。時間はすでに五時半を回っており、日は傾きかけている。脇野沢の集落を抜けるとあとは1本道だが、気がせいているせいか、距離が長く感じる。

九艘泊は小さな漁業集落だ。道沿いに番屋が立ち並び、その道を進むと県道は行き止まりになる。その先に、「北限の日本猿とむつ湾展望台」があるようなのだが、通行止めになっており、さらに夕日を撮影した後の夜の帰り道は危険なようだ。撮影ポイントを探しながら来た道をゆっくり戻る。

この地は、陸奥湾の出口になっている。この日の夕日は、ちょうどこの地から見るその湾口に沈むようだ。夕暮れの中、カーフェリーが沖合いを航行している。この日の陸奥湾は、私に絶妙なロケーションを用意してくれているようだ。

すぐに車を停めてカメラを用意した。湾口に向ってカーフェリーがゆっくり船体を運んでいく。波の音以外、車の音も人のざわめきもない。日没までのさほど長くはない時間がゆっくりと過ぎていく。このような時間に旅の中では時折出会うことがあり、それがたまらなく好きだ。

フェリーが湾口から津軽海峡に抜けて視界から消えると、それを待ちかねていたように夕日が下りてきた。先ほどまでは淡いオレンジ色だった空が急に赤みを増し、湾口の水平線に吸い込まれていく。

水平線が、太陽の名残の紫の空を眺めながら、カメラを片付け、この夜お世話になる道の駅に向った。