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イザベラは、日光の金谷家から、奥地旅行の「練習」のために、西へ十六kmほどの湯元まで、馬上旅行を行った。しかし装具の違いなどもあり、馬から泥の中に滑り落ちるなどさんざんなもののようだった。それでも、山間の温泉の宿は気に入ったようで、また「湯治」の習慣を持たないイザベラは、湯治客たちに好奇心を向け、日に十二回も湯に入り、何もせず一日を過ごすことに興味を持ったようだ。
イザベラは、一旦、日光の宿に戻り、奥地旅行の準備を始めた。その合間にも、子供たちの遊ぶ様子を子細に見つめている。特に、金谷家で開かれた子供たちのパーティーは、日本の中流階級の社会的礼儀や家庭のしつけなど、女子教育も含まれているもので、興味深く観察している。また、生け花や裁縫などは、日本の女性の美しさを形成するものとして、見ているようだ。
そして、親しんだ金谷家での中流階級の暮らしに別れを告げ、いよいよ奥地旅行へ出発する。

第十一信
藤原にて

【奥地へ】
伊藤に知らせてくれた人の言うとおりだった。安楽な生活は日光で終りであった。今朝六時に、一人の小柄な女が二頭の元気のない雌馬を連れてきた。私の鞍と勒をその一頭につけ、伊藤と荷物をもう一頭に乗せた。宿の女主人と私は、どうぞお元気でとあいさつを交わして、お辞儀をし、女の人たちは私の哀れな馬を、鼻のまわりを結んだ縄で引いてくれた。私たちは日光のすばらしい社殿や荘厳な杉の森を後にして、長くて清潔な街路を下って行った。
(中略)

【好奇心】
少しざわめきがあったと思うと、人々が大麦の束を背負って帰って来てその軒下に積んだ。ほとんど着物らしいものを身につけていない子供たちは、何時間も傍らに立って私をじっと見ていた。大人も恥かしいとも思わず、その中の仲間に加わった。彼らはそれまで、外国婦人やフォークやスプーンを見たことがなかったからである。

(中略)

【貧しい山村】
新しい馬はラクダのように横に揺れる足取りであった。それで私は小佐越(こさごえ)という小さな山村で馬を交替した時はほっとした。ここは大層貧しいところで、惨めな家屋があり、子供たちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、ひどい労働と焚き火のひどい煙のために、顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた。
私は見たままの真実を描いている。もし私の書いていることが、東海道や中山道、琵琶湖や箱根などについて、各旅行者の記述と違っていても、どちらかが不正確ということにはならない。しかしこれが本当に私にとって新しい日本であり、それについてはどんな本も私に教えてくれなかった。
日本はおとぎ話の国ではない。男たちは何も着ていないといってもよいだろう。女たちは、ほとんどが短い下スカートを腰のまわりにしっかり結び付けているか、あるいは青い木綿のズボンをはいている。それは足にぴったりしたもので上部はだぶだぶである。青い木綿の着物を腰まであけっぴろげて帯に端折り、青い木綿の手拭いを頭の周りに結んでいる。来ている着物からは男か女かわからない。顔も、剃った眉毛とお歯黒がなければ見分けがつかないであろう。
短い下スカートは本当に野蛮に見える。女が裸の赤ん坊を抱いたり背負ったりして外国人をポカンと眺めながら立っていると、私はとても文明化した日本にいるとは思えない。自分の頭を持ち上げられるほど大きくなった子は、母の肩越しに楽しげにあたりを眺めている。しかし六歳か七歳の小さい子供が、柔らかい赤ん坊を背なかに引きずっている姿を見るのはいつも私には辛い。

(中略)

【女馬子】
私の馬子は全く人のよさそうな顔をしていたが、労働でこわばった顔が、お歯黒のために気味悪く見えた。彼女はわらじを履き、とても貧弱でヨレヨレの青い木綿のズボンに肌着を押し込み、青い木綿の手拭いで鉢巻きをしていた。空模様が怪しかったので、彼女は蓑をつけていた。これは藁で作った雨具で、連結した二つの肩マントを、一つは頭のところでもう一つは腰のところで結びつけたものである。それから直径二フィート半の平べったい笠を、楯のように背中に下げていた。登ったり下ったり、石の上を越え、深い泥道を通り、彼女はしっかりした足取りで進んだ。時々その優しいが醜い顔を振り返って、少女たち(他の馬を引いている)が無事に後をついてきているかどうかを確かめた。このように見苦しい服装ながら、しっかりと頑健な足取りをする方が、きついスカートとハイヒールのために、文明社会の婦人たちが、痛そうに足をひきずって歩くよりも私は好きである。

【鬼怒川】
小百から道路は深い森の山あいの不規則な草深い谷間を通っていた。谷間そのものも、大公園のように松やヨーロッパ栗の林におおわれていた。しかし小佐越を離れると景色が変わってきた。険しい岩だらけの道を行くと鬼怒川に出た。清らかな奔流で、色とりどりの岩石の間を深く切りながら走っていた。かなりの高所に橋がかけてあり、怖いほど急な曲線を描いていた。そこからは高い山々の景色が素晴らしい。その中には二荒山があり大昔の神々の伝説が残っている。私たちは鬼怒川の流れる音を聞きながら、しばらく馬に乗って進んだ。しばしば川のすばらしい景色はちらと見ることができたが、流れは斑岩の壁にせき止められて荒れ狂い、あるいは静かな緑色の水をたたえて、桃色や緑色の大きな石板の上にひろがっていた。

(中略)

【働く人々】
私たちの通り過ぎた少数の部落は、いずれも農家だけで、軒の深い一つ屋根の下に、住居も納屋も馬小屋も入っていた。どの納屋でも、人々は裸身となって、種々の仕事に励んでいた。駄馬が頭から尻尾まで綱で結びつけられて、米と酒を積んで進む行列や、桑の葉を一杯入れた大きな籠を、男や女が運ぶ姿にあった。峡谷はますます美しくなってきた。まっすぐにのびている杉の暗い森を登ってゆくと素晴らしい場所にあるこの村に着いた。ここには多くの小さな峡谷があり、底辺を流れる鬼怒川の深い割れ目まで、稲田の段々畑が勤勉にもつくられている。十一時間を旅して、ようやく十八マイルやって来たのだ。

(中略)

【困難な道】
私は伊藤と一緒に家の外をくまなく見た。人々は辛抱強く働いており、村は絶好の場所にあった。人々は晩にも仕事があり、村には物静かな単調さが漂っていた。私はその様子を縁側からじっと観察し、私にこの旅行を思い立つに至らせた「アジア協会誌」の節を読んでみた――「鬼怒川の流れに沿って進むコースはまことに絵のように美しいが、また困難な道である。この道は外国人にとって、また日本人にとってもほとんど知られていないように思われる。」上にはきれいな淡黄色の空があり、下には一フィートも深いぬかるみがある。この時期の道路は泥沼のようで、急流が横切り、板を渡してあるところが多い。

(中略)

【山村の服装】
両側には農家があり、その前には大分腐った堆肥の山がある。女の人たちはそれを崩して、そのはだしで踏みながら、それをどろどろにする作業に従事していた。仕事中はみな胴着とズボンをつけているが、家にいるときは短い下スカートをつけているだけである。何人か立派な家のお母さん方が、この服装だけで少しも恥かしいとも思わずに道路を横切り、ほかの家を訪問している姿を私は見た。幼い子供たちは、首からひもでお守り袋をかけたままのはだか姿である。

【害虫】
彼らの体や着物、家屋には害虫がたかっている。独立勤勉な人たちに対して、きたなくてむさくるしいという言葉を用いてよいものならば、彼らはまさにそれである。暗くなると、カブトムシ、クモ、わらじ虫が、私の部屋に出てきてばか騒ぎをやるのであった。同じ家の中に馬がいるので、たくさんの馬ばえがいた。私は携帯用ベットに虫取り粉をまいたが、毛布を床の上に一分間も置くと、蚤がたかってきて眠ることができなかった。その夜は大層長かった。行燈が消えるとほかの強い悪臭が残った。

(中略)

【恥ずかしい場所】
雨が滝のように降って来たので、雨漏りの水を避けるために、ベッドをあちらこちらへ移し替えなければならなかった。五時になると伊藤がやって来て、どうか出発してくれと私に頼んだ。「ちっとも眠れませんでした。何千何万という蚤がいるものですから」と泣き言を並べた。彼は別のコースで内陸を通り、津軽海峡へ行ったことがあるが、こんなところが日本にあるとは思わなかったと言い、この村のことや、女の人たちの服装のことを、横浜の人たちに話しても信じてはくれぬだろう、と言った。「こんな場所を外国人に見せるのは恥ずかしい」とも言った。

(中略)

【外国人】
高原という次の宿場で、荷物を運ぶために馬を一頭を雇った。川を渡り峡谷を越えて、険しい山道をのぼり一軒のさびしい宿屋についた。そこは例のごとく間口が開いており、囲炉裏があって、老若の多くの人が腰を下ろしていた。私が到着すると、きれいな顔をした娘たちの群れはすべて逃げだしたが、彼らの年長者に、伊藤から話しをして、間もなく呼び戻してきた。(中略)伊藤は次のように説明した。「彼女たちはまだ外国人を見たことはないのです。しかし人から、外国人が少女たちに対して、いかに不作法であるかという話しを聞いて、とても怖がっているのです」。ここでは食べるものはご飯と卵だけである。そこで私は、十八対の黒い眼が、じっとわたしを見つめているところで、ご飯と卵を食べた。

【鬼怒川渓谷】
私たちはそこを出発した。五十里(いかり)まで歩いて五マイルである。土砂降りの雨に打たれながら新しくできた道を進んだ。道は滝になって落ちてゆく鬼怒川にすっかり閉じ込められて、ある時は高くある時は低く、岩の面から突き出した支柱に支えられて進んだ。私は、日本でこれ以上に美しい場所は見ることはできないだろうと思う。
川はどこも水晶のように青色や緑色が透明で、雨で水量を増し、明るい色の岩のはざまを迸り流れる。水流はしばしば岩石にさえぎられるが、しばしもとどまることなく、きらきらと光りながら駈け下りる。両岸は高い山が壁のようにそそり立っている。山はすばらしい樹木におおわれ、暗い峡谷がその間を深く割っている。本流は大きな泡をたてながら、凄まじい響きを立てて、ころがるように流れてゆく。とどろく音響は、多くのやまびこによってさらに倍加する。峡谷に出るたびに、はるか背後には重畳の山あり断崖あり、滝の落ちる眺めがある。あまりにも草木が豊富なので、灰色の絶壁を見ても、露出している岩を見てもうれしくなるほどであった。

(中略)

【五十里本陣】
五十里の部落は山の傾斜地に集まっており、その街路は短く原始的に見えるが、雨がはれて明るく輝くときには、その温かい茶色と灰色の風景は実に魅力的である。私の泊まった場所はこの宿駅の本陣で丘の上にある。大きな納屋のような家で、片側の端が馬小屋で、反対側は居間になっている。中央には多量の産物が輸送されるばかりになっており、一団の人々が、桑の枝から葉をむしり取っている。昔、近くの大名は、江戸へ行く途中にここで泊るのが常であったから、大名の間と呼ばれる客座敷が二つある。十五フィートの高さで、天井は立派な黒材で、障子は格子細工の名にふさわしい、立派な造作である。襖には芸術的な装飾がほどこしてあり、畳は清潔で立派である。床の間には、金の蒔絵の、古い刀掛けが置いてある。

(後略)