宮城県大和町吉岡の天皇寺には、伊達政宗の側室の飯坂の局の供養碑と、吉岡城主で政宗の三男の宗清の墓がある。
飯坂の局は、伊達氏一族の飯坂宗康の次女として生まれた。黒川城主黒川晴氏の兄式部を婿養子として飯坂家を継がせることになっていた。ところが、当代第一の美女といわれた美貌を愛した政宗は、天正9年(1581)米沢に召しだし側室とした。
しかし、この説には少し無理があるようだ。飯坂の局が米沢に上がったとする天正9年には、政宗が14歳、局は12歳であり、政宗の生母の義姫から疎まれていた政宗を世話していた祖母の久保姫が、飯坂氏に頼み米沢に上げたものと推測する。政宗にとって、側室というよりも、心を安らげる女友達といったものだったろう。この飯坂の局の、扇でねずみを追う仕種が猫のようだったということから、政宗は「猫御前」とあだなをつけたとされ、この逸話からは、幼い二人の微笑ましい様子が伺える。
天正19年(1591)、政宗に第1子の兵五郎(のちの宇和島藩主伊達秀宗)が産まれた。この生母は飯坂の局とも新造の方とも言われており、伊達家の記録によれば、「新造の方」は、飯坂宗康の二女とあり、「飯坂の局」と同一人物ということになる。しかしその「新造の方」は、慶長5年(1600)、三男の権八郎(のちの伊達宗清)を産み、慶長17年(1612)伊達家江戸屋敷において没している。しかし飯坂の局は、その後も伊達宗清の養育に当たるなど生存している。
飯坂の局は、秀宗が生まれた時期、政宗は米沢から岩出山城に移ったが、局はこのころ疱瘡を罹い岩出山に行くことはできなかった。病は治ったが痘痕で美貌は失われ、局は身を引くことを政宗に願い出、政宗はこれを許し、扶持500石を与えたという。疱瘡にかかった局のもとに、幼い秀宗を残しておくことはできなかっただろうし、痘痕の残った姿を秀吉の側室や大名の室ら、美姫の前にさらすことは到底できなかっただろう。
飯坂の局は、信頼する女性(侍女?)に秀宗を泣く泣く預け、謎の側室(六郷氏娘?)「新造の方」が局に成り代わり京都の聚楽第に上がり、「生母」として秀宗を養育し、、また関ヶ原後は江戸で暮らしたのだろうと推測する。
飯坂の局は、実子の秀宗を手放さざるを得ず、政宗とも離れ、松森に小さな庵をむすび、他人との面会もせず静かに暮らした。もちろん、秀宗やその「生母」としての新造の方が、京都や江戸に住まいするのは人質の意味があり、伊達家としても、飯坂の局を秀宗の生母とするわけにもいかず、公式的な記録においても混乱しているようだ。
その政宗は、朝鮮の役、関白秀次事件、上杉討伐と忙しく、ゆっくりと国許に居る暇もなかった。しかし関ヶ原の戦いも終わり、慶長6年(1601)にようやく新築された仙台城に戻った。
伊達家はその家法として、年始の正月三日に軍事訓練を兼ねた巻き狩りを行っていた。上は一門から下は大番組に至るまで、美装に身をかためて城から岩切へ行列をくりだし、藩主は現在の仙台市宮城野区案内の高台に本陣を置き、今市の北、高森館、松森館、等に亘り、紅白の旗を振り合わせ、ほら貝が鳴り響き、藩中の武備、兵馬の綺羅を競い、砲声山野に轟く、まことに壮観なものだった。
恐らくはそのような折に、政宗の近習が、飯坂の局が松森に隠棲していることを告げたのだろう。慶長9年(1604)、政宗は、野狩りの帰途、松森の局のもとを訪ねた。実に14年ぶりの再会で、政宗は40歳、局は38歳になっていた。局はすでに痘痕を気にすることもなく、猫御前の昔に帰り、懐かしさの中で政宗と話が弾んだことだろう。
この時期、局の父の宗康が没した後、飯坂氏には男子がなかったため、飯坂家は断絶していた。局は、手放さざるを得なかった実子の秀宗を養育してくれた新造の方が、政宗との間に生まれた3歳の幼子の権八郎(後の宗清)を残し病死したのを知った。飯坂の局は、不思議な縁を感じながら、新造の方に代わり権八郎を養育し、飯坂家を再興することを政宗に望み、政宗もそれを許した。
権八郎は 飯坂の局の養子となり松森館に住み、局の養育を受けて。11歳で元服し、飯坂河内守宗清となり、慶長15年(1610)三万石の城主として黒川郡下草城に移り、さらに元和2年(1616)に、吉岡三万八千石を領した。
飯坂の局も宗清に同行し、下草城や吉岡に赴いた。宗清は、飯坂の局によく訓育されたようで、領内の経営には心を砕いたようだが、寛永11年(1634)、35歳の若さで病没し、飯坂の局も悲しみの中、すぐ後を追うように1ヶ月後に没した。享年66歳。宗清とともに、吉岡の天皇寺に葬られた。
飯坂家は、宗清に子がなく、重臣の桑折氏から養子を迎えたがこれも子がなく、二代藩主忠宗の子宗章(むねあき)を後嗣としたが16歳で夭折し、原田甲斐の子輔俊(すけとし)を後嗣とした。だが寛文事件で切腹させられ、結局飯坂家は断絶した。
※ここでの論は、時代状況と断片的な史実からの推論であり、確定的な史実ではありません。
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