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佐原十郎義連の子の盛連には6人の男子があり、長男の経連は猪苗代に、次男広盛は北田、三男盛義は藤倉、六男時連は新宮に住み、それぞれ猪苗代氏・北田氏・藤倉氏・加納氏・新宮氏の祖になった。五男盛時は宝治合戦で滅亡した三浦氏の名跡を継ぎ、佐原氏の惣領となったのは黒川を領した四男の光盛で、相模の葦名にちなみ葦名氏を名乗るようになった。

南奥羽は、白川結城氏や伊達氏など、南朝方が優勢だった。葦名氏は北朝方として、これらに対峙していたが、延元3年(1338)、北畠顕家が和泉国石津の戦いで戦死すると、次第に南朝方は衰退していった。足利尊氏は、一門の石塔義房をはじめ、畠山・吉良氏らを奥州管領としてあいついで派遣し、葦名氏一族は吉良氏に従い北朝方として戦ったようだ。葦名氏は、会津四郡内で、会津守護職にあり、その地位を根拠として支配拡大に利用した。

しかし、葦名氏と新宮氏との争いに始まり一族庶氏との争いが頻繁に起き、また、新宮氏と北田氏など、庶氏家同志も相争うようになった。また16世紀に入っては、松本氏、佐瀬氏、富田氏などの、葦名氏の有力家臣同士が争うなど混乱が続いた。

葦名氏の家督を盛舜が継承すると、はじめこそ混乱を見せたが、やがて家中の内訌はほとんどみられなくなった。しかし、上杉氏や伊達氏など、隣接する大名が強大な力を持ち始めており、南奥の諸勢力との外交的な接触も重要になっていた。

盛舜は、京都将軍家とも接触し、天文7年(1538)には、太刀一腰と黄金十両を将軍義晴に贈り、また天文9年(1540)には大鷹一居を贈り、その答礼として太刀一腰を遣わされている。盛舜の時代には、葦名氏は長い内訌を克服し、会津における地位を確立し、事実上の会津守護としての行動をみせるようになった。

盛舜の跡は盛氏が継ぎ、猪苗代氏や長沼氏と戦い、会津盆地における反対勢力を制圧していった。天文11年(1542)からの伊達氏の内訌の天文の乱では、伊達晴宗に味方し、信夫郡や安積郡にも兵を出し、出羽の長井や最上領にまで出兵している。

盛氏は合戦に明け、合戦に暮れ、二本松の畠山義継、須賀川の二階堂盛義、三春の田村清顕などの諸将を片っ端から斬り従えて配下とした。一方、強敵の伊達・結城家とは婚姻政策をとり、相馬盛胤とは烏帽子親となって親子の交わりを結んだ。さらに、遠方の北条氏康・武田信玄・上杉謙信らとは同盟を結び、常陸の佐竹義重とは何度も覇を競って戦ったが、決着がつかず、のちに和睦している。この盛氏の活躍で、葦名氏の版図は最大となり、全盛時代を迎えた。

その後、盛氏は隠居し、家督を嫡子の盛興に譲ったが、天正3年(1575)、盛興は盛氏に先だって若死してしまった。盛興の正室は、伊達晴宗の娘の彦姫で、側室に男児がいたがまだ嬰児であり、盛氏は二階堂氏から人質にきていた盛隆を、未亡人の彦姫と結婚させ、当主にすえた。東北の雄となった盛氏だったが、この後継問題の行く末を案じながら、天正8年(1580)60歳で没した。

盛氏の没後、それまでの外征による家臣の不満が表面化し、それに二階堂氏の人質から葦名氏の当主になった盛隆に対する不信と反感で、天正12年(1584)10月、盛隆は近習により黒川城内で殺害された。盛隆のあとは、その前月に生まれたばかりの亀若丸が継ぐことになったが、その亀若丸も2歳で死んでしまった。

相次ぐ当主の死により葦名家中は混乱し、亀若丸の跡を、佐竹義重の二男義広を養子に迎えるか、伊達政宗の弟竺丸にするか、佐竹派と伊達派とに家臣団が分かれ争うが、結局佐竹義広が養子に入り葦名氏を継ぐことになった。

このことで伊達氏は、葦名氏と佐竹氏と敵対することになり、伊達氏は会津に調略の手を伸ばし、人取橋の戦い、摺上原の戦いとなっていく。

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