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②抗日パルチザンなど真っ赤な嘘

金日成は金亨稷の長男金成柱として、1912年4月、平壌西方の万景台(マンギョンデ)に生まれた。父母は現在の北朝鮮では、金日成の神格化とともに、「独立の闘士」として顕彰されている。もちろんそれは真っ赤な嘘だろう。

母の康盤石はキリスト教徒であり、外祖父の康敦煜はキリスト教長老会の牧師だった。祖父の代までは代々文盲だったが、父亨稷は平壌の学校に通い、字の読み書きを覚え、東洋医学を独学し、南満州鴨緑江の北岸に移住して「順川医院」という無資格の漢方薬医を営んだ。アヘンの密売などで一時は裕福だったが、それ
を妬んだ朝鮮人の共産主義者に、1926年6月殺された。その後、母の康盤石は中国人の警察隊隊長の妾になった。金成柱は当時、中国人中学校に通いながら、共産主義に関係していた小さな組織に参加し逮捕され、中学校を退学になった。

金成柱は家を飛び出し、金一星(イルソン)と変名して、南満州の抗日武装団に所属した。満州の間島地域には、1920年頃には朝鮮族50万人程度が集住しており、朝鮮国内の独立運動に刺激された農民や労働者が新たに決起したことで、間島地域では多数の抗日武装組織が結成された。これら抗日武装組織は、しばしば越境し、朝鮮北部の町を襲撃した。しかし、それは民間人や非武装施設への略奪・襲撃であり、大日本帝国軍や朝鮮総督府と直接に武力衝突を行うものではなく、野盗と同様の犯罪者武装集団で、総称して匪賊とか馬賊と呼ばれた。彼らの独立闘争とは、日本軍と戦うことではなく、国境を越えて、朝鮮人、日本人の区別なく、非武装の住民を襲い略奪することだった。

その匪賊集団は離合集散を繰り返しながら、結局は中国共産党軍に吸収されていった。金成柱も1932年頃中国共産党に入党し、抗日パルチザン組織の東北抗日聯軍の隊員となった。これらの組織は、中国革命に従事するための組織であり、朝鮮族隊員はしばしば粛清された。しかし金成柱は、中国共産党や部下たちからはそれなりの信望があったようで、粛清を免れ、東北抗日聯軍の第一路軍第二軍第六師の師長(大隊長クラス)となった。

朝鮮、咸鏡南道の、普天堡(ポチョンポ)の町に夜襲をかけた。それまでと同様の、民間人や非武装施設への略奪・襲撃だった。金成柱部隊のおよそ170名は、16隊に分かれて駐在所の襲撃を開始した。別動隊は試験場、営林署、森林保護区、消防署を襲撃した。駐在所には5名の警察官がいたが、全員が退避したが、巡査の幼子1名が母親とともに避難中に殺された。金成柱部隊は駐在所から銃器と弾薬を奪った。

次に、村の事務所や郵便局を襲い、放火し、続けて商店及び住宅も襲撃し、地元民から現金4000円(現在の約6000万円前後)及び物資を奪った。被害にあった地元民の殆どは朝鮮人だったが、料理店経営者だった日本人1名が居室で殺害された。この後、襲撃隊はビラを撒き撤退し、襲撃による総被害額は当時1万6000円(現在の約2億4000万円前後)だった。

翌日、日本の警察が追撃を開始したところ、金成柱部隊は引き返し、交戦にいたり、警官隊に死者7名、負傷者14名を出した。

当時普天堡は、役場を中心に日本人26戸50名、中国人2戸10名、朝鮮人280戸1323名、合計1383名が居住している小さな村だったが、近くに重要都市の恵山鎮があることから、日本側はこの地を重視していた。しかし襲撃の後、恐怖のため住民たちはこの地を離れ、普天堡周辺は過疎化した。日本はこの事件を重要視し、金成柱の名が朝鮮領内で大きく報道された。このことにより、金成柱の名が知られるようになった。その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始し、抗日聯軍は50余名の死者を出して退散した。いずれにしても「白頭山伝説」の「普天堡が金日成将軍様が導く遊撃隊に攻撃されて満身創痍になった」のは、金成柱部隊だったが、莫大な資金を略奪したのは事実のようだ。

金成柱部隊はなおも、満州で襲撃、略奪、拉致を繰り返しながら、満州地区を逃げ回っていた。しかし1940年3月には、功を焦った満州の警察部隊の前田隊を待ち伏せし、事実上、これを「全滅」させたが、金成柱部隊も、200余名のうち31名の戦死者を出した。しかしその後は、日本側の討伐作戦や巧みな帰順工作により、東北抗日聯軍は消耗を重ね壊滅状態に陥った。1940年秋、金成柱は党上部の許可を得ないまま、直接の上司も置き去りにし、わずかな部下とともにソビエト連邦沿海州へと逃れた。ソ連に逃亡した金成柱らは、ソ連の極東軍に中国人残存部隊とともに編入され、第一大隊長となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となっていく。

金成柱は、平壌で生まれたものの、中国で育ち、中国の朝鮮族の武装犯罪者集団に身を置き、国境を越えて略奪の限りを尽くしたのが、彼らが言う「独立闘争」だった。それが追いつめられると、中国共産党に身を置き、「朝鮮独立」ではなく「中国革命」を掲げながら民間人を襲い、略奪を繰り返した。それも行き詰まると、部隊を捨てて、旧ソ連に脱走し、ソ連軍に身を置き、対日戦に備えたが、当時はまだ日ソ不可侵条約が有効であり、本格的な対日戦は行われていなかった。

その後、終戦間近の1945年8月、ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、北緯38度線以北の朝鮮半島北部になだれ込んだ。金成柱は、ウラジオストクからソ連の軍艦に搭乗し元山港に上陸、ソ連軍の一員として平壌に入った。同年10月に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金成柱は初めて朝鮮民衆の前に、金日成としてその姿を現した。

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