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③ 伝説の「金将軍」は別にいた、パクられた金擎天の生涯

「白頭山伝説」のモデルの一人と考えられる金擎天は、1988年両班の代々武官を勤めていた家系に生まれた。父親は親日的だったようで日本に留学し、金擎天も日本留学を志し、1909年東京に留学し、陸軍士官学校第23期生となった。当時日本には、朝鮮から複数の留学生がおり、後に日本帝国陸軍中将にまでなった洪思翊もその一人だった。1910年の日韓併合に際しては、全員が衝撃を受け、脱走抗日を口にする者も多かったが、金擎天は洪思翊とともに、「吸収するべきものを吸収して時期をみよう」と自重を促したという。

1911年に士官学校を卒業し、陸軍騎兵学校に進み、1919年には騎兵第一連隊所属の日本陸軍中尉となっていたが、留日朝鮮人学生たちが二・八独立宣言を出したのを機に朝鮮半島に帰った。三・一独立運動を目前にした擎天は、抗日独立運動への参加を決意し、陸士後輩の池青天とともに国境を越え、満州へ入り、1920年のはじめには、ウラジオストクの抗日同志らと連絡をとり、独立運動の舞台をシベリアに移した。

当時のシベリアは、1917年に勃発したロシア革命により混乱状態にあった。沿海州を中心に、シベリアには朝鮮人が多く、抗日を志して運動をくりひろげる亡命者も多数いた。そのリーダー格の李東輝が、上海の大韓民国臨時政府の国務総理だったが、社会主義者で、レーニンから資金援助を受けており、満州とシベリアの抗日朝鮮人集団は、赤軍に荷担していた。

金擎天は、スーチャンのタウデミ村でパルチザン部隊を結成し、他の部隊とともに中国人馬賊部隊と交戦しこれを退け、この馬賊退治で名を挙げ、金将軍と呼ばれるようになった。スーチャンでは、300人ほどのパルチザン連合部隊が組織され、金擎天はこれを指揮し、1921年には白ロシア軍との戦いに参加した。

スーチャンは、当時、非常に治安が乱れており、金擎天はこの地域に軍政をしいた。擎天が指揮したパルチザン部隊は、際だって規律が高く、一旗組も多かった他のパルチザンとはちがっていた。赤軍指導者も「擎天の朝鮮人部隊は規律、大義への専心と敬愛の模範を示していた。……朝鮮人のあいだでは規律への不服従、命令不履行、ましてや泥酔といったケースをわれわれは知らない」と絶賛している。

金擎天は、1921年のはじめころにはスーチャン高麗義兵団の司令官となり、およそ600人ほどを率いるようになった。高麗義兵団は、主にイマン近辺を舞台に、赤軍に協力して白軍と戦闘をくりひろげた。1922年には金擎天は、ポシェト軍区パルチザン連合部隊長になった。

このシベリアにおける当時の擎天の活躍は、朝鮮半島において発行されていた東亜日報や朝鮮日報などでも盛んに報じられ、1923年7月の東亜日報は、1ページを使って擎天のインタビュー記事を載せた。この中で、擎天は「1922年1月2日のイマンにおける戦闘では、司令官の降伏で指揮官を失ったソビエト赤軍の指揮までとり、弾丸が降り注ぐ中を、白馬にまたがって指揮をとり続け、ついにイマン占領に成功した」といったことを語っている。しかしこれらの擎天の活躍は、ロシア内戦のものであり、直接的な朝鮮独立のものとはいいがたい。

1922年10月、ウラジオストクが赤軍の手に落ち、日本は北サハリンをのぞいたシベリア全域から撤退し、ソビエト共産党が政権を掌握、ロシア内戦は終結した。ソビエト政権は、日本との関係修復のために、朝鮮独立の武装活動を見逃すわけにはいかなくなり、朝鮮人抗日パルチザンの活動は封じられた。

擎天は、武装独立闘争の継続を願い、1923年1月に上海で行われた大韓民国臨時政府の国民代表会議に出席した。しかし、指導者の対立で臨時政府は分裂崩壊し、シベリアの高麗共産党を中心とした勢力が朝鮮共和国を名乗った。その国務委員には陸軍士官学校の後輩の池青天がおり、擎天もこれを支持していた。1923年8月、朝鮮共和国の組織は、ソ連政府の庇護を期待してウラジオストクへ移り、独立宣言を発したが、コミンテルンはこれを否承認とし国外撤去を迫り組織は四散した。武装独立運動の夢を捨てきれなかった擎天はシベリアに残り、ウラジオストク韓族軍人クラブを組織したりと、朝鮮独立のための軍事組織の再編を模索した。

朝鮮人の日本陸軍士官学校卒業生は、当時、全ぎ会という親睦組織をもっていた。洪思翊を中心に、彼らは現役の日本軍将校でありながら、独立運動に身を投じた擎天と池青天の消息を気にかけ、京城に残された二人の妻子を密かに援助していた。

1925年、擎天は妻子をウラジオストクに呼び寄せた。ソ連では1930年代の半ばから、スターリンの大粛清の一環で、ソビエト共産党や公的機関の要職にあった朝鮮人指導者、知識人に弾圧の手がのびた。1936年、擎天もスパイ容疑で逮捕された。1937年には、沿海州に住む朝鮮人20万人は、すべてが強制移住の対象となり、短期間のうちに中央アジアへ移送された。擎天の妻子もカザフスタンのカラガンダに送られ、「人民の敵、」のレッテルを貼られ辛酸をなめていた。擎天は1939年に釈放されたが、ひとつきほどで再逮捕され、1942年獄中死したとされる。

金撃天は、略奪を繰り返し、日本軍に追討された中共軍の脱走兵である金日成とは異なり、朝鮮独立に命をかけた真の英雄と言えるかもしれない。金撃天は、スターリンが死亡した後の、1959年2月に名誉回復され、遺族も復権した。

金成柱=金日成は、1940年頃は、日本軍に追い詰められ、ソ連に逃げ込んでいた。同時期にソ連に囚われていた金撃天の活躍と、そのソ連での消息を知らないわけはなかったと思われるが、金成柱は、偉大な同胞の英雄を救うことはなく、その名声だけを自分の物にした。