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三戸南部は、後継問題がくすぶり続けている中の天正10年(1582)、南部晴政が没し、その跡は実子の晴継(鶴千代)が12歳で継いだ。しかしその晴継は、父の葬儀が終わり、三戸城に帰城する途上、暴漢に襲われて一命を落とし、三戸南部は大混乱となった。

晴政の長女の娘婿であった田子信直と、次女の娘婿である九戸政実の実弟の九戸実親がその有力な候補となり、南部一族は大きく二つに割れた。それまでのいきさつから、晴継は晴政長女の死後、田子にひいていた信直の手により暗殺されたとの疑惑を持つ者も多く、それらの一族の多くは九戸実親を推した。これに対し、田子信直を推す八戸政栄と北信愛は、武力をちらつかせながら、強引に信直の後継の道を開いた。これがその後の九戸の乱につながっていくことになる。

田子信直が、九戸実親を退けて半ば強引に三戸南部家当主となり、南部氏惣領になったことにより、実親の兄・九戸政実は大いに不満を持ち、南部信直との関係は険悪なものとなった。

南部氏は、南北朝期までは八戸南部氏が宗家としての位置づけだったが、南朝方だった八戸南部氏が衰退し、三戸南部氏が宗家として南部一族の中心となっていた。しかし主従関係は比較的弱く、八戸氏・九戸氏・櫛引氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族による同族連合の状況だった。

この時期は、豊臣秀吉がすでに天下統一に大手をかけており、小田原征伐の準備段階であり、津軽独立を目指す大浦為信は、豊臣政権に働きかけていた時期だった。その為もあり、南部氏も天正14年(1586)には豊臣政権との接触をはじめていた。

天正18年(1588)豊臣秀吉が小田原に向かうと、南部信直は八戸政栄に三戸城代を委ね、兵1千を率いて、小田原征伐に参陣し、その年の7月に南部の所領の内、津軽地方は大浦為信に所領安堵されてしまったが、糠部郡など7ヶ郡についての朱印状を得た。これにより、南部氏は、三戸南部氏の当主信直が南部氏宗家としての地位を公認され、それ以外の南部一族は、「家臣」として服属することを求められた。当然、九戸氏らの反信直派はこれに強く反発した。

秀吉の奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏ら小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地などを行い、郡代、代官を配置して軍勢を引き揚げた。奥州仕置軍が引き上げると、同年10月から陸奥国各地で、奥州仕置に対する不満から葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発した。 南部信直は、和賀・稗貫一揆に兵を出し、鳥谷ヶ崎城(花巻城)で一揆勢に包囲されていた浅野長政代官を救出するのが精一杯だった。

情勢が不穏の中で翌天正19年(1591)の新年、九戸氏は三戸城における正月参賀を拒絶して南部宗家への反意を明確にした。同年3月には、九戸側の櫛引清長の苫米地城攻撃を皮切りに、ついに九戸政実は5千の兵を動かして挙兵し、九戸側に協力しない周囲の城館を次々に攻めた。もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢は強大化し、三戸南部側は苦戦が続いた。とうとう自力での九戸政実討伐を諦め、信直は息子の南部利直と、重鎮、北信愛を秀吉のもとに派遣し、6月、再仕置き軍を要請した。

秀吉は奥州各所での一揆鎮圧のため、大規模な奥州再仕置軍を編成した。白河口には豊臣秀次を総大将として3万の兵が、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示した。

奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進し、蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実勢50名が小鳥谷で仕置き軍に奇襲をかけ、480人に打撃を与え、これが緒戦となった。しかし9月1日には、九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、九戸政実は九戸城に籠もり、翌2日には、総勢6万の仕置き軍が九戸城を包囲した。

九戸城は、西に馬淵川、北に白鳥川、東に猫淵川に囲まれた断崖に面した台地に築かれていた。本丸、二の丸、三の丸、松の丸、石沢館、若狭館などが配され、それぞれの郭は巨大な空堀で区画されていた。

城の正面の南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。

領民わずかに2千5百ほどの九戸の盆地を,仕置軍六万が、埋め尽くすことになった。これに対して九戸城に立て籠もる九戸政実の軍は僅か5千ほどだった。仕置軍は、始めは,たかが田舎の小城とあなどっていたが、要害の地の九戸城を攻めあぐねていた。

10月初旬、いっせいに九戸城包囲攻撃が開始された。四方から数千丁の鉄砲を撃ちかけ、その中を兵たちは川をわたり崖をよじ登る。城方が弓、鉄砲を撃ち返す。待ち構えた城兵が攻め手を槍で突き落とす。中央軍にはニ日間の戦闘で数百人の犠牲者が出た。

寄手の犠牲者は攻めるほどに増えていった。兵糧攻めにしようにも、冬の寒さが訪れる中、逆に寄手の兵糧が心配される事態だった。急激に寒さの訪れるこの狭い盆地の中で,6万もの大軍が長滞陣をすることは不可能だった。

仕置軍は謀略を用いた。九戸氏の菩提寺である長興寺の僧の薩天和尚に、「開城して、天下に逆心なきことを訴えたらどうか」「そうすれば、一門郎党の命を助けることができる」「領地知行もそのままお構いなしになるだろう」の内容の、浅野長政、蒲生氏郷などの連名の書を与え、開城を勧告させた。

この仕置軍の申し出に対し、九戸政実は剃髪し、櫛引、七戸、久慈氏などと城を出て捕らわれの身となった。しかしその約束は守られることはなく、政実らを捕らえた後、蒲生氏郷の軍は城に入り、城方のものを二の丸に押し込めて火をかけた。城方は女子供も残らずなで斬りにされた。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。薩天は、この仕置軍のむごい仕打ちに対して、呪いの言葉をはきながら、自ずからの首を掻き切ったという。

政実らは遠丸籠に押し込められ,栗原の三迫の豊臣秀次の本陣に引き立てられ,一言の釈明も許されず,天下の大罪人として首をはねられた。
この4年後、豊臣秀次は秀吉への謀反の疑いをかけられ非業な最後をとげ、一族も皆殺しにされた。蒲生氏郷はその同じ年,京の伏見で突然血を吐き急死し、その後蒲生家内部の争いで改易に近い減封を受けた。そして豊臣家も大阪の陣で滅亡した。南部家はその後も家名は保ったが、その内部に不幸な出来事が起きるたびに、薩天と九戸一族の呪いのせいだとする話が家中ではささやかれた。

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