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三陸沿岸は、源義経の北行伝説以外には、どちらかというと歴史や伝説が希薄な地のような気がする。それはこの地の地形や気候が、極めて厳しく農業には適さず、大きな集落も出来にくかったからだろうか。

しかし、この地での三閉伊一揆は、江戸時代最大ともいえる一揆で、それも一揆側がそれなりの成果を上げえたものとして驚嘆すべきものである。
以前からこの三閉伊一揆には興味を持っており、一揆の頭取の多助の墓を訪ねようと思っていた。北三陸の絶景を観光資源とするこの地では、三閉伊一揆は観光資源としては地味すぎるのかもしれないが、三陸沿岸の住民は、大いに誇りとすべきものだ。

田野畑の集落に入り、多助の墓を地元の方に訪ねると親切に教えていただいた。そして、多助の墓の近くには、三閉伊一揆の資料を集めた「田野畑村民族資料館」があるという。これは嬉しかった。
百姓一揆に関するものは、各地に「義民の墓」などとして残ってはいるが、その多くはアウトローとして扱われており、断片的であることが多い。民衆からの時の権力に対してのレジスタンスであるものの、その多くは悲劇であり、刹那的である。しかしこの三閉伊一揆は10年以上の長期間にわたるもので、集団指導による組織的なもので、戦略的にもすぐれ、それなりの成果も上げている。

この資料館が一揆の資料館であることを聞かなければ、単なる「民族資料館」としてスルーしていただろう。早速訪ねてみた。最初に多助の墓を訪れてから入館しようと職員の方に墓地の詳しい場所をたずねると、近くにあるという。そして親切にも案内していただいた。日曜日にもかかわらず、入館者はだれもいないらしい。多助の墓を取材し、その後館内を見せていただいた。

一揆勢は1万6千人にも達し、それを多助ら数人の指導者が一つの方向性を持たせ長期間戦いえたことは驚くべきことである。それは戦国期の南部信直や伊達政宗にも匹敵するものであり、権力を持たない民衆であることを考えれば、多助らの人物としての器量はそれ以上だったのかもしれない。

資料館を出てからそんなことを考えながら長慶天皇にまつわる伝説を伝える大宮神社に寄り、「鵜の巣断崖」に向かっていると、偶然にもう一人の一揆の立役者の切牛弥五兵衛の墓を見つけた。墓石に向かい、偉大な平民に挨拶をした。

午前中は晴れわたっていた空模様もくずれ、いつのまにか空には薄雲が広がり、「鵜の巣断崖」に着いたころには時折雨粒もおちてきた。夕暮れも近づき光も弱くなっていた。早々に写真に収めた。この日は真崎海岸まで予定していたが、日の光が持ちそうになかった。

ここから先は、宮古にかけて津波の被害がひどかったはずだ。津波の被害の跡はできれば見たくはなく、夜の帰り道の中でスルーするつもりだった。このまま少し内陸を通る国道45号線を走り、田野畑物語にある「思案坂」と「辞職坂」を訪れ、帰途につくことにした。

この「思案坂」と「辞職坂」は、この地のあまりの厳しさに、田野畑に赴任するためにこの地を通った役人や教師が、「思案坂」で行くか戻るかを思案し、「辞職坂」に至り辞職することを考えたという。この地は、かつてはリアス式海岸沿いに、アップダウンを繰り返す交通の難所であり、点在する集落は、何かあればすぐに陸の孤島と化した。
この地の歴史を肌で感じるためには、この「思案坂」、「辞職坂」を見る必要があると思っていたが、現在はこの地を走る国道45号線は、深い谷には橋がかけられ快適な走りが楽しめる地となっていた。それはこの地の観光や、物産の流通にとって良いことで、陸の孤島と化すことももうそうはないだろう。その深い谷は新緑や紅葉の時期には見事な風景も楽しめそうだ。

辞職坂の橋のたもとから写真を何枚か撮りそんなことを考えていたが、やはりこの地の厳しさをわずかでも体感したいと考え、日暮れも近く、小雨の降る中、旧道と思われる谷底の道に降りていった。
谷底からの風景は、上から見渡す爽快感とはまるで違い、両側の岩壁が押しつぶすように威圧してくる。三閉伊一揆の切牛弥五兵衛らは、恐らくはこのような風景の中を幾度も往来したのだろう。一揆勢の心象風景の一端が少し見えたような気がした。

思案坂、辞職坂を後にして、小雨の中帰途についた。帰り道は仙台までの約300kmの夜の道になる。のんびりと走ろうと思っていた。国道45号線を南下していくと、途中「熊の鼻」の看板を見つけ、予定外であり、また夕刻で天気も悪かったが、岬の展望台に上った。
自然は気まぐれで、たとえ天気が悪くとも、思いもかけず本来の美しさを垣間見せてくれることがある。私は旅の途中では常にそれを期待し、そのような場に居合わせる幸運を狙っている。「熊の鼻」の展望台に上ると、北側には、断崖の上部は霧に覆われた小雨に煙る岬が悲しそうなたたずまいを見せている。南側は、まだわずかに残る青空からの夕日を受けて光る雲により、岬が黒々と優美なシルエットを見せている。

青空の下での黒崎や北山崎の絶景は、多くの観光客を魅了するものではあるが、私には今一つ情感に欠け物足りなさが残る。今回の北三陸の旅では、雨の小袖海岸、大唐倉の日の出、光り輝く黒崎や北山崎と、自然は様々な顔を私に見せてくれた。
その中で、この「熊の鼻」の絶景は、この日を締めくくるものとして十分なものだった。そのはずだった。しかし実はこれで終わりではなかった。

「熊の鼻」を後にし国道45号線を一路南下した。日はすでに落ち暗闇が訪れかけていた。津波の被害が大きかった田老町は日が落ちてから通ることになりそうで、それは被害の様相をあまり目にしたくない私にとっては幸いなことだった。
そんなとき、「真崎海岸」の表示板が目に入った。真崎海岸は、本来はこの日の予定に入っていたのを諦めていたのだが、迷ったあげくに場所だけでも確認しておこうとハンドルを切った。これが間違いだった。

1kmほども走ると、薄闇の中、津波の被害の大きさが現れ始めた。恐らくは観光地としての施設が多くあっただろう海岸近くは、土台を残すだけで、当然のことながら人気は全くなく、津波は今は引いているだけでまた襲ってくるような恐怖すら覚えた。海水浴場への道路は封鎖され、近くの展望台への上り道も半ばくずれている。くずれた展望台になんとか上がった。その風景は薄暗闇の中威圧的にせまり、恐ろしくも美しかった。

すっかり暗くなった国道45号線を走る。折角、震災の甚大な被害をできるだけ見ずにすまそうと選んだ今回の旅程だったが、最後の最後にその凄みを見せられてしまった。やはりその恐ろしさから目を背けるわけにはいかないのかも知れない。
田老町に入ると、暗闇の中信号だけが光っている。「見たくない」と思う反面、「見なければならない」との気持ちもあり、観念して車を停めて辺りを伺うと、高くそびえる防潮堤の中の町が、根こそぎ消滅していた。

その後、大槌町、陸前高田、南三陸町など、人気の全くない真っ暗闇の被災地から、逃げるように仙台まで走った。

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