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福島市山口の安洞院の地は、信達札所第二番目の霊地であり、また文知摺石をめぐる伝説の地である。この信仰と伝説とが多くの人々を惹きつけ、この地には長い歳月にわたり堂塔が建立され、多くの碑が建てられた。観音堂、多宝塔が建ち、北畠顕家の甲剛の碑、鎌倉期の板碑、福島城主堀田正虎の文知摺石顕彰碑などの碑が建つ。そしてそれらが又、松尾芭蕉や正岡子規などをこの地に惹きつけた。

この地は、かつて都人に珍重され、一世を風靡したと言われる「文知摺絹」の発祥の地である。文知摺絹は、文知摺石の乱れた模様に布をあてがい、その上から忍草などの葉や茎の色素を摺り付けたものをいう。この「文知摺絹」のみだれ模様が、心の乱れを表す歌枕「しのぶもちづり」、「しのぶずり」として広く歌の世界で用いられた。

この文知摺石は文知摺観音の敷地の中に柵に囲まれて鎮座している。この石は鏡石とも呼ばれ、次のような伝説が伝えられる。

貞観年中(859~77)、嵯峨天皇の皇子で、河原左大臣とも呼ばれた中納言源融(みなもととおる)が、陸奥国按察使として陸奥に赴任し、あるときこの地を訪れた。日も暮れ、道もわからず困り果てていると、この里の長者が通りかかり、家に招いた。

融は出迎えた長者の娘の虎女の美しさに心を惹かれ、また虎女も融の高貴さに心を奪われた。こうして二人は愛し合うようになり、融の逗留は一月余りにもなった。やがて融を迎える使いが都からやってきて、融は再会を約して都に旅立った。

再会を待ちわびる虎女は、その慕情やるかたなく文知摺観音に百日参りの願をかけ祈り、満願の日になったが都からは何の便りもない。嘆き悲しんだ虎女がふと見ると、文知摺石の面に、慕わしい融の面影が浮かんで見えた。懐かしさのあまり虎女が駆け寄ると、それは一瞬のうちに消えてしまった。虎女は悲しみのあまり病の床につき、そのままはかなくなった。

その後まもなくして都から融の歌が使いによりもたらされた。

みちのくの しのぶもぢずり 誰故に 乱れむと思ふ 我ならなくに  …源融

この地の伝説に出てくる源融は、嵯峨天皇の皇子で、紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人ともいわれている。

貞観6年(864)、源融は陸奥出羽按察使となったが、実際には赴任しなかったという説もあるが、この信夫の地の伝説のほかに、現在の塩釜の「融ヶ岡」と呼ばれる地に屋敷があったと伝えられ、また、塩釜からの千賀ノ浦の風景をこよなく愛し、都に「塩釜」の風景を模した日本式庭園を有した「六条河原院」を造った。時期的なものは不明だが、奥州の地に足を踏み入れたのは間違いないだろう。

源融は天皇の後継候補だったが、藤原基経の「後胤なれど姓賜ひてただ人に仕えて、位につきたる例やある」、要するに一旦、源氏姓を受けて臣籍に下ったという理由で退けられた。しかしもちろんこれは、藤原氏の権勢を維持させるための口実で、基経は後に、自身の猶子となっていた、源氏姓となっていた光孝天皇の第二子の源定省を 宇多天皇として即位させた。

当時、左大臣だった源融は、太政大臣だった藤原基軽との衝突を避けて、 貞観18年(876)頃より自宅に引籠もったと言うが、この時期に源融は、 現在の渉成園に「塩釜」を模した庭園を築き「六条河原院」を造ったようだ。

宇多朝の寛平3年(891)関白太政大臣藤原基経が没し、融は再び太政官の首班に立ったが、寛平7年(895)に享年74歳で没した。

紫式部は、この時期の源融の、特に文化人としての動きに興味を持ち、それを題材として源氏物語を構想したものと考えられる。源氏物語の「松風」の巻の嵯峨野の御堂は、融が建てた阿弥陀堂そのものであり、また、物語中、源氏の豪邸六条院は、融の建てた河原院そのものである。

この贅を尽くした河原院は、融の死後急速に荒廃し、融の霊がさまようとも鬼が棲むともいわれた。宇多上皇が京極御息所(みやすんどころ)を河原院に伴い密事に及んでいるところに融の霊が現れ、御息所を失神させた話や、無人の河原院を宿とした東国の夫婦が鬼に襲われ、妻が喰われてしまった話などの伝承から「夕顔」の卷が書かれたとも伝えられている。

源氏物語の中に、虎女とのはかない恋は描かれてはいないが、今も歌い継がれている百人一首「しのぶもちずり」の一首に、虎女の姿が偲ばれる。