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青森県南東部の山深い地にある新郷村には、キリストの墓とされる塚がある。

一般にキリスト教徒に信じられているところでは、キリストの墓の場所はエルサレムの「聖墳墓教会」あるいは「園の墓」である。
ゴルゴダの丘で磔刑になったキリストが、実は密かに日本に渡りこの地で没したとする話が、昭和10年(1935)茨城県磯原町の皇祖皇大神宮天津教の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきたとされ、一時、この地が注目された。

竹内文書には、「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文」にはじまる記述や「イスキリス・クリスマス」の遺言があるとされ、イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されず、弟のイスキリを身代わりにして日本に渡来して死に、その墓が「十来塚」であるとする。

これらの文書によると、「十戒」は、日本の天皇が来日したモーセに授け、モーセの墓は石川県の宝達志水町に存在し、釈迦をはじめとした世界の大宗教教祖はすべて来日し、天皇に仕えたことになっている。
これらの「竹内文書」は、現在は偽書と断定されており、この地の「キリストの墓」は、この地の人々に伝えられてきた伝説ではなく、あるとき「降ってわいた」外からの話だ。

それでは、この地の古塚は何なのか、この地の地元史を研究している方々は、この塚を永く守ってきた、沢口家の伝承などから、以下のような仮説を立てている。

平安時代の中期頃、当時は青森県の北、現在の五所川原市の辺りには、安東氏の支配下の十三湊があり、蝦夷地や大陸との交易が盛んに行われていた。そのような時期、大陸の交易船が難破し、日本海側に漂着した。その中に、ひとりのロシア人船夫がおり、人里を探してさまよい歩き、運良く助けられ、その後彼は流浪し、最終的にこの新郷村にたどり着いた。

結局、ロシア人船夫はそのまま住みつき、沢口家の娘と結婚し、生涯を遂げた。この新郷村の近くにある尾去沢鉱山には、このロシア人と同一人物かどうかは定かではないが、その時期にロシア人が働いていた記録も残っているという。故郷から遠く離れた地で骨を埋めることになった彼を不憫に思った村人たちは、塚を築き、彼が信仰していたキリスト教のシンボルである十字架をたてたとされる。

また、江戸時代初期には、キリスト教は禁止され、各地で厳しく取り締まりが行われた。それらの取り締まりを逃れた切支丹たちの多くは、各地の鉱山に逃れた。当時の鉱山での労働は非常に厳しく、鉱夫のなり手が少なく、親殺し、主殺し以外の者は、その支配地域に限り、深く追及されることもなく暮らすことができた。

南部領内には金山や銀山が多く、切支丹が多く働いており、中には異国の宣教師などもいたという。この地の塚も、そのような切支丹にまつわるものかもしれない。

この地の「キリストの墓」を「史実」ではないとして切り捨てるのではなく、この地の「不思議」の一つとしておおらかに見て欲しいものだ。

この地には「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」という意味不明の節回しの祭唄が伝えられている。これも「キリスト」との関わりでヘブライ語とする説もあった。しかし、民俗学者の柳田國男は、種市町の漁村で村の娘に教わったというその歌詞は「なにヤとやーれ なにヤとなされのう」で「何なりともせよかし、どうなりとなさるがよい」と、祭りという特別な異性との出会いの日に、男に向かって呼びかけた恋の歌、としており、個人的にはこの説がもっともしっくりくる。

江戸時代には、盆踊りは格好の男女の出会いの場であり、そこでの出会いから結婚に結びつくことが多かったようだ。その日は村の大人たちも大目に見ており、相思相愛の男女は、踊りのあとに闇に紛れ、逢瀬を楽しむこともあったようだ。今もある地方の盆踊りは、男は女装し、深い菅笠を被り、踊りには唄はなく、和太鼓だけの煽情的な調べが明け方まで延々と続く。

またその日は、人目を忍んで女性の家へ夜這いをかけることも多かったようだ。ただし、そのような夜這いにも一定の秩序はあったようだ。

当時、村の若者たちは、神社の社などに集まり「若者宿」のような集まりを持っていたようだ。そこでは普段から若者たちが悩みを共有していたようで、当然そこには男女の悩みもあっただろう。そのような場で、誰が、どこに夜這いをかけるのかが決められ、その当事者以外はサポートにまわったようだ。

このような「若者宿」を取り仕切るようなものは、それなりの信頼を集めたものであり、若者たちの様々な思惑をまとめた結果は、その村の秩序を壊すようなものではなかっただろう。

このようなことは、女性たちが軽く見られていたとか蔑視されていたとかいうわけではなく、思う若者から夜這いをかけられることを心待ちにしていた女性もいただろう。また思う若者がいる場合は、前もって「若者宿」の「頭」に相談したりもしたようだ。どうしても嫌な相手がいれば、それを申し出ておくようなこともあったようだ。

その地方や村により、そのルールは様々にあったようだが、それらのルールは、村の秩序が守られるようなもので、そのような中で、村の団結が守られていったようだ。

そして時間をかけて、村の若者たちの間に暗黙の了解ができて、盆踊りの日の夜に太鼓が鳴り響き、「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」と歌われたのではないだろうか。