花巻は、観光資源として宮沢賢治とその作品を扱っているようで、いたるところに賢治関連の案内板がある。

宮沢賢治は明治29年(1933)9月、花巻に生まれた。父は質屋を営み、地元では裕福な家に育った。小学校時代には成績は優秀で、6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した教師が、生徒たちに童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えたと云う。鉱物採集、昆虫の標本づくりに熱中するようになり、11歳のころ家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられた。

明治42年(1909)、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。18歳の頃、法華経の経典に胸を打たれ、以後熱心な法華信者となる。19歳の時に現岩手大学農学部に首席で入学。学業のかたわら友人たちと文学同人誌『アザリア』を創刊、短歌を発表していく。
この頃、東北では度重なる飢饉で農民は貧困に喘いでいた。そして、質入れにくる貧農たちを見て、賢治はそんな家業に反発するようになった。

25歳のとき、家出同然に上京し執筆活動をし、雑誌『愛国婦人』に童話『雪渡り』を発表し稿料5円を得たが、これは彼が生前に受け取った唯一の稿料だった。しかし、『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』『鹿踊りのはじまり』『かしはばやしの夜』『よだかの星』など、今も読み継がれる名作童話の多くは、この頃に書き上げられたものだった。

半年後、最愛の妹トシの病気が重いことを知らされ帰郷し、花巻農学校(現、花巻農業高校)の教諭に就任する。しかしそのトシは24歳の若さで病没し、痛切な『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。

その後賢治は、教職を辞め花巻郊外で農耕生活に入る。そして近隣の農家の青年たちと羅須地人協会を設立し、稲作法や土壌学、植物学などの講義を行なった。また農業指導に奔走し、農村を走り回ったが、元来体が丈夫ではなかったこともあり、急性肺炎にかかり実家に帰って療養する。

35歳のとき、童話『風の又三郎』を執筆する。その後も肥料の普及などで駆け回っていたが、再び病に倒れ、その病床で『雨ニモマケズ』を書き留めた。そのまま病床から抜け出すことはできず、37歳でこの世を去った。死後、未完成のままの『銀河鉄道の夜』が発見された。賢治は28歳の頃から亡くなるまで、何年も『銀河鉄道の夜』に手を入れ続け、ついに未完のままで旅立った。

 

実は、私は宮沢賢治の作品があまり好きではなかった。昔は、ファンタジーやメルヘンの軽いノリのものと思っていた。彼の生き方と同様、行きあたりばったり的で、現実世界では、その能力を無駄使いしているようにしか思えなかった。それでも、彼の作品には根強い人気があり、それもあって、軽い気持ちで、その作品のモチーフとなった地を歩いた。

最初に訪れたのが「イギリス海岸」だった。この「イギリス海岸」は、水が引いた状態だと、白い泥岩が露出し、賢治は白い断崖のドーバー海峡を連想したようで、「イギリス海岸」と名付けたようだ。賢治は、この地を好んで訪れ、思い立つと夜中でも訪れたという。夏の夜空に南北に流れる天の川と、地上を流れる北上川の間を、小さくて頼りない軽便鉄道が橋を渡って行くのを見て、そんな光景から、不思議な名作「銀河鉄道の夜」が生まれたという。しかし、それは、私の、ひ弱で感傷的な賢治像を補強するだけのもので、特段の印象はなかった。

その後も、何回かに分けて、花巻に限らず他の地域の賢治ゆかりの地を訪ねた。その中で、岩手県矢巾町の南昌山を訪れた。

南昌山は、標高848.0mの山で、岩の鐘を伏せたような均整のとれた形をしており、坂上田村麻呂の時代から霊山として敬われている。古くから天候を司る霊峰として地元の信仰を集め、この地方では「南昌山が曇れば雨が降る」と言い伝えられている。南昌山の山中には白竜が棲んでいて、暴れると雲が峰を覆い、毒気で人々を苦しませたという伝説がある。

他にも多くの伝説をもつ南昌山は、宮沢賢治にとっては、異界と接する地でもあり、賢治は、盛岡中学の寄宿舎で同室であり、この地の山麓に住む友人の藤原健次郎と、休みの日には南昌山を訪れ、水晶やのろぎ石などを採集し楽しんだ。健次郎は野球部の4番バッターとして活躍したが、遠征の帰り大雨に濡れ、腸チフスにかかり急逝した。この南昌山での健次郎との思い出が、「銀河鉄道の夜」の中に多く盛り込まれているという。

その後、賢治の妹トシの死に際しての『永訣の朝』を読む機会があった。

=永訣の朝=
けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)※あめゆきとつてきてください
うすあかくいつそう陰惨な雲から、みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた、これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして、わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から、みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子、死ぬといふいまごろになつて、わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを、おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ、わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから、おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの、そらからおちた雪のさいごのひとわんを
ふたきれのみかげせきざいに、みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち、雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた、このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの、さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ、みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)※あたしはあたしでひとりいきます
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の、くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる、わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも、あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから、このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)
※またうまれてくるときは、こんなにじぶんのことばかりで、くるしまないやうにうまれてくる
おまへがたべるこのふたわんのゆきに、わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖(きよ)い資糧(しりょう)をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

この『永訣の朝』を読み、しばし言葉も出ないような感覚に襲われた。賢治は、妹トシの死後まもなくに『銀河鉄道の夜』を書き始め、亡くなるまで、何年もそれに手を入れ続け、ついに未完のままで旅立った。それは賢治の死生観そのものであり、生きている間に完成するはずもない作品だったのかもしれない。

生前彼の作品はほとんど一般には知られず無名に近かったが、没後草野心平らの尽力により、作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。賢治にとっては恐らくはそのようなことはどうでもよかったのだろうが、その作品群が日の目を見たことは、日本人にとっては幸いなことと言える。

この『永訣の朝』を読んだ後、以前は山麓から眺めただけの南昌山に出かけ、銀河鉄道の出発点の山頂までのぼった。賢治の死生観のなにがしかを共有できたようには思えたが、若い時分に読んだ『銀河鉄道の夜』の印象とは大きく異なるもので、吸い込まれそうな恐れもあり、未だに読み返しができないでいる。

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