小野小町は平安時代の歌人の1人で、六歌仙、三十六歌仙の1人に数えられている。また容姿端麗で、日本の美人の代表的な存在としてその名を今に伝える。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

小野小町伝説は、全国いたるところにあり、特に地名が「小野」の地に多く残る。この湯沢市小野の地は、小町の生誕、及び終焉の地とされ、周辺には多くの小野小町の伝承や伝説の地が密集している。この小町堂のある地は、芍薬(しゃくやく)塚の地に建てられ、毎年6月に「小町祭り」が行われ、小野小町の伝説を伝えている。

小野小町は、小野篁の息子である出羽郡司の小野良実の娘とされており、天長2年(825)に生まれたとされている。その生年から考え、小野篁の娘とする説もある。

小町は、この秋田県湯沢市小野で生まれ、晩年もこの地で過ごしたとされる。しかし、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府は、山形県酒田市の城輪柵に移しており、その周辺との説もある。他にも、京都市山科区、福井県越前市、福島県小野町、熊本県熊本市、神奈川県厚木市など、生誕伝説のある地域は全国に点在している。

この地であるとする根拠は、『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われ、また小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小野篁は、青年時代に父の小野岑守に従い陸奥国へ赴き、弓馬をよくし、東北地方に多くの伝説を伝えている。

この地の伝承によれば、

出羽郡司小野良実は、大同2年(807)に赴任し、この福富荘に館を構えた。この地には、当時この土地では珍しい桐の木が生えていたので桐ノ木田館と呼ばれていた。

良実は、任地を巡回しているとき、大きな屋敷の前で芍薬の花を摘んでいた村長の娘の大町子を見初め、大同4年(809)、この地で小野小町が生まれたと伝えられる。

この地には古い井戸が今も残り、この井戸は小町が産湯を使った井戸と伝えられ保存されてきた。館跡に残ったこの井戸は、上から見ると自然石が五角形に組まれ、このような造りはこの地方では用いられず、当時の都を中心に作られた形だと云う。

歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞との贈答歌が多く伝えられている。

小町と同時代の在原業平には東下りの話があり、また今でいう名うてのプレイボーイであり、小町にも恋歌を送っていたようだが、小町はこれを手ひどく断ったという。恐らくはそのような話をモチーフとしているのだろう、後世、世阿弥などの能作者たちが小野小町伝説の百夜通いを創作した。

この地の伝承では、小野小町は、36歳の時宮中を辞し、この生まれ故郷に帰り、庵を造り静かに歌を詠み暮らしていたとされ、百夜通いの話もこの地の各所にはめ込まれて伝えられている。

それによると、小町が都にいた頃から思いを寄せていた深草少将は、小町を忘れがたく、郡代職を願い出て都から小野の里へと下った。少将は恋文を小町に送ったが、このとき小町は疱瘡を患っており少将に会おうとはせず、「私を心から慕ってくださるなら、高土手に毎日一株づつ芍薬(しゃくやく)を植え、それが百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と伝えた。

少将はこの返事をきいて野山から芍薬を堀り取らせ、毎日一株ずつ植え続けた。小町はその間、磯前(いそざき)神社の清水で顔を洗い、疱瘡が直りもとの美しい姿に戻るように祈った。

少将は一日も欠かすことなく九十九本の芍薬を植え続け、いよいよ百日目、その日は秋雨が降り続いたあとで川は増水しており、無情にも百本目の芍薬を持った少将は川に流され亡くなってしまった。小町は深い悲しみに暮れ、少将の亡骸を手厚くこの地の二ツ森に葬り、少将が植えた九十九本の芍薬に九十九首の歌を捧げたと云う。

この二ッ森は、現在の道の駅おがちの裏手にある瓢箪型の森で、大きいほうを「男森」、小さいほうを「女森」と呼び、古くから深草少将と小野小町の墳墓の地と伝えられている。また男森には、小町の母が祀ったと伝えられる弁才天があり、麓には小町の父の小野良実が建立したと云う走り明神もある。

小町は、その後は世を避けて暮らすようになり、いつ頃からか、父の小野良実が建立した小野寺の奥の岩屋堂に住むようになった。小町はここで香をたきながら、一人自像を刻み、昌泰3年(900)、92歳でその生涯を閉じたと云う。岩屋堂の途中には、小野寺の跡があり、また小町が沐浴をしたという二ツ滝もある。岩屋は広さ20畳程で、入り口の前に立つと、眼下には深草少将の館があった長鮮沢をはじめ小野の里が一望できる。

小町の最後の地やその墓も全国に点在しており、その多くは、「百夜通い」から連続し、「衰老落魄説話」に帰結していく。その後日談は、彼女を伝説的な美女から、人生の栄枯盛衰を経た一人の老女としての姿を強く描き、仏教的な諸行無常へと導いていく。この最後の地とされる岩屋堂もその流れの中にあるようだ。

 

 

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