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山形県鶴岡市の郊外に、肥後熊本藩初代藩主、加藤清正の墓がある。

加藤清正は、豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人として名を上げた。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として九州に留まり、黒田如水と共に九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、肥後の小西行長領を与えられ52万石の大名となった。徳川家康の実力を認め、徳川政権下で尾張名古屋城の普請に協力するなど家康に尽くしたが、同時に豊臣家への恩義を忘れず、その存続にも心を砕いていた。

関ヶ原の戦いの後、政治の実権は徳川家康に移ったものの、朝廷では秀頼を摂家豊臣家の後継者として見なしており、これは関ヶ原後に家康に権力が移っても、豊臣家は関白になり得る存在だった。徳川家康も、豊臣家との並立を模索していたようで、豊臣家は幕府からは五摂家と同じく公家として扱われた。

また、加藤清正、福島正則らの秀吉恩顧の大名たちは、家康に仕えながらも、豊臣秀頼への忠節も示していた。しかし、統一的な政権を目指す徳川家康にとって、そのような情勢はもちろん好ましいものではなかった。

豊臣秀頼が12歳になった慶長10年(1605)4月、右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀君の反対で実現しなかった。加藤清正らは、徳川体制での豊臣家の家名の維持を考え、豊臣家に働きかけ、慶長16年(1611)3月、秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で家康との会見を行うことになった。

豊臣秀頼は、加藤清正や浅野幸長に守られ上洛することになった。このとき清正は、秀頼が暗殺されることを恐れ懐剣をしのばせていたという。会見は無事に終わったが、家康は成長した秀頼に会い、また清正らの豊臣家への忠節心を感じ、清正らの意図とは反対に、豊臣家を滅ぼすことを決意したともいわれる。

加藤清正は、この会見の後、帰国途中の船内で発病し、同年6月熊本で死去した。享年50歳だった。この清正の急死は、家康による毒殺とする説もある。清正の跡は11歳の忠広が継いだ。その後、徳川秀忠の養女・崇法院を正室に迎え、徳川家と縁者になった。

結局、徳川家康は豊臣家を滅ぼす方向に舵を切り、慶長19年(1614)、大坂の陣が始まり、翌年の慶長20年(1615)、豊臣氏は滅亡した。福島正則らの豊臣恩顧の武将らもこの流れに抗することは出来ず、徳川方に与した。わずかに福島正則が、大阪方による自軍の兵糧の没収を黙認し、また、加藤家の重臣・加藤美作が武器や兵糧を大阪城に搬入し、密かに豊臣家を支援したのみだった。

加藤忠広は若年であったためもあり、家中がまとまらず、重臣の対立が発生し、政治は混乱した。また暗愚だったともされ、細川忠興は忠広の行状を「狂気」と断じていたともいうが、それらは、戦国期を果断に走り抜けた清正の強烈な光の陰になってしまったからだろう。

寛永9年(1632)、忠広は突然幕府から身に覚えのない嫌疑をかけられた。その嫌疑の内容は曖昧なものであったようで、有力外様大名を、改易させる政治的な意図だったと思われる。忠広は申し開きの為、江戸へ上ったが品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰を下された。国許に戻ることも許されず、そのまま庄内に配流された。

家族のうち忠広に同行を許されたのは生母の正応院のみで、許された供の者は20名ほどだった。忠広は、世の無情に無念と憤りをかかえ、羽州街道を経て、出羽の大石田から、最上川を青がや屋根の小舟で清川へと下り、配流の地の庄内の丸岡へ入った。

世の中ぞ 道分け行くや 毛頭川 うき名を下す 青がや小舟

忠広らは庄内藩酒井氏預りとなり、酒井氏は丸岡一万石を捨扶持として忠広に与え、丸岡城跡に忠広とその生母を住まわせた。

改易の理由のひとつに、藩主忠広の嫡男の光広が、諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作り座興としたこととされるが、加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名であり、豊臣氏と血縁関係にあったために、手頃な理由をつけられて取り潰されたというのが実際のところだろう。光広は飛騨高山にお預けとなったが、1年後の寛永10年(1633)、父忠広に先立ち病死した。改易の遠因は自分にあったことに堪えられず、自刃したとも伝えられる。

忠広と正応院は、清正の遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に納め、後に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。昭和24年(1949)の調査では、この地の清正閣の下から清正着用と推定される鎧が出土した。また、小さな五輪塔は、密かに野に下した忠広の子供のものと言われている。

忠広はその後、この丸岡の地で22年間の余生を過ごした。文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯山参拝や水浴びなどをしたり、生活はそれなりに自由だったようだ。しかし忠広は、許されることの無いままこの地で死去した。

忠広は丸岡において2子をもうけたといわれているが、公にはできなかった。子孫はその後、大庄屋加藤与治左衛門家として存続し、その流れは山形県を中心として各地に存在する。

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