松島は、松尾芭蕉が訪れ「笑うが如く」と評し松島を遊覧し、松島の月を愛でた。しかし歴史には表があるとともに裏があり、松島の歴史にも、開かずの間に封印されたような歴史がある。

松島の現在の瑞巌寺は、かつては延福寺と称し、開創は平安のはじめにさかのぼる。天長5年(828)、比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅を奉じ、3000の学生、堂衆とともに松島にきて寺を建立したとされる。この寺は延暦寺と比肩すべき意を持って延福寺と命名されたと伝えられる。

平安時代後期の後三年の役の後は、奥羽の地は平泉藤原氏の支配下にあった。松島の延福寺も、藤原氏の庇護を受けて大いに栄えた。しかし、文治5年(1189)に、鎌倉の源頼朝は平泉を攻め、平泉藤原氏は没落し、奥羽各所には、鎌倉の御家人が地頭として入った。延福寺はその後もこの地で天台宗の教義を守っていたが、庇護者を失い、次第に衰退していった。

瑞巌寺の参道脇に「法身窟」と称する岩窟があり、この地には北条時頼の廻国伝説が残されている。それによると、東国修行中の執権北条時頼が、宝治2年(1248)この地に来た時、延福寺では山王七社大権現の祭礼が行われていた。時頼は舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さの余り「前代未聞の見物かな」と大声を発したところ、それに驚いた稚児が、舞の途中で立ち往生してしまった。神楽を中断させると言うことは、いかなることがあっても許されることではなく、このことに荒法師達 は怒り、時頼は殺されそうになった。一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、近くの岩窟に逃げ込んだ。

その岩窟には、このとき修行僧の法身がいた。時頼が、一夜の宿を貸しては頂けないかと頼むと、僧は「沙門は三界を宿とし一心を安んじて本宅となす。誰を主とし、誰を客とせん」と答え、時頼を丁寧に迎えた。二人は意気投合し法談で時を重ねた。話すうちに時頼は法身の禅僧としての高潔さにうたれた。

時頼は、鎌倉に帰った後、三浦小次郎義成に千人の軍兵を与えて松島に向かわせ、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。僧達の一部は福浦島に逃れ、経文はすべて経ヶ島に運ばれ焼かれた。

この時、延福寺の僧たちがのがれたという福浦島は、瑞巌寺五大堂の北東に浮かぶ島で、現在は陸地とは全長252mの朱塗りの橋で結ばれている。松島の風景の中でも代表的なもので、島内は自然植物公園となっており、絶好の散策路となっている。

福浦島に逃れた宗徒達にとっては、鎌倉のこの処置は理不尽なものであり、宗徒達は普賢堂閣円を中心に、北条時頼を呪詛することと決した。この呪詛と言うのは、たんなる呪い祈るだけではなく、全国の宗徒達に呼びかけ、熱烈な信奉者が刺客としてその呼びかけに応じることも意味していた。

一同は、島に糧食を運び込み、陸地側からは見えない反対側の入り江の近くに護摩壇を築き、北条時頼の呪詛を始めた。福浦島の護摩壇のかたわらには、時頼の名と年齢とを記した木札がうず高くつまれた。呪詛の一夜があけるごとに一札を火中に投じて焼き、百枚の木札を焼き終わった日を満願とする。しかし隔絶された島でのこと、厳しい警戒の中糧食を運び入れることもままならなかった。飢えの中、一枚の木札が減るごとに、幾人かの宗徒が去り、あるいは飢えで死んでいった。

木札が最後の一枚になったとき、生き残っていたのは普賢堂閣円と一流坊の二人だけだったという。最後まで残った者も、他はみな飢えにより死んだ。供物はすでに尽きていたが、護摩木だけは、残った一流坊が、疲れた体をひきずって枯れ木を懸命に集めた。死臭の漂う暗闇の中で、呪詛の成就を願う二人の修行僧の姿は幽鬼さながらであったという。

最後の木札が火中に投じられた時一流坊は息絶えた。普賢堂閣円も「時頼の身命をたちどころに奪いたまわん事を」と回向し終わるとこれもまた息絶えたと伝える。

しかし、普賢堂閣円らの呪詛が成就することはなかった。その後、北条時頼は、岩窟で出会った僧を捜し出し、新しく円福寺と名を改めた寺の住職とした。この時から、天台宗の延福寺は、円福寺と名を変え臨済宗の寺として生まれ変わることになり、北条氏の庇護を受けることになった。

以降は平泉藤原氏に替わり鎌倉幕府が大檀越となった。北条政子は当時学徳一世に高かった見仏上人に仏舎利を寄進し、夫の菩提を弔わせている。仏舎利・寄進状は今に伝わっている。円福寺は鎌倉幕府の保護もあり、その勢力を岩手県南部にまで伸長し、寺格も五山十刹に次ぐ諸山の高位にあった。しかし、戦国時代に入り次第に衰退した。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが終了した後、仙台に治府を定めた伊達政宗は、仙台城の造営と併せて神社仏閣の造営も行った。塩竃神社、仙台大崎八幡宮、陸奥国分寺薬師堂が相次いで完成した。

政宗は、瑞厳寺の造営には特に心血を注ぎ、用材を紀州熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運んだ。名工130名を招き寄せ、工事は慶長9年(1604)、政宗自ら縄張りを行い慶長14年(1609)に完成した。

江戸時代には、伊達家の厚い庇護を受け、瑞巌寺は90余りの末寺を有し、領内随一の規模格式を誇った。しかし、明治維新を迎え王政復古の政策は廃仏毀釈を惹起し、さらに伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃が瑞巌寺を始め松島の諸寺院を直撃し、零落、廃絶、焼亡等の憂き目を見た。瑞巌寺はそれでもようやく維持されていたが、明治9年(1876)、天皇の行在所となり、内帑金千円が下賜され、復興の契機となった。

現存する本堂、御成玄関、庫裡、回廊は国宝に、御成門、中門、太鼓塀は国の重要文化財に指定されている。

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