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服部康成は、津軽藩祖の津軽為信と二代藩主信牧、三代藩主信義に仕え、家老として津軽藩の基礎を築いた。しかし、その出自は定かではない。

津軽為信は、南部からの津軽独立に際しては、南部氏に先んじていち早く豊臣秀吉のもとに上がり、本領を安堵された。しかし津軽氏と争っている中でのそれは、南部氏にとっては騙し討ちに似たものであり、南部氏は豊臣秀吉に強く抗議したが、いったん決まった秀吉の裁定が覆ることはなかった。このとき、為信と秀吉の間に入って尽力したのが石田三成だった。その後、秀吉が没し、石田三成と徳川家康が反目し、関ヶ原の戦いに突入していくことになる。

為信は三成には強く恩義を感じていたようで、しかしながら石田方につけば、徳川方の南部氏の強大な勢力が、津軽に襲い掛かってくることは必定だった。当時、為信の嫡男の信建は、豊臣秀頼の小姓として大阪城にあった。為信は手勢300騎を密かに大阪城に入れ、次男の信牧を徳川方につかせ、自ずからは日和見にまわり、石田方や徳川方との折衝に当たった。

伊達氏や南部氏などの東北の諸将の多くは徳川方であり、上杉勢と戦うことを命じられていた。しかし、家康にその去就を疑われていた為信は、徳川本軍へ随行することを命じられ、大垣城攻めに加わることになった。

この時、徳川家康は、服部康成を為信の陣に送り込んできた。いわば徳川の軍目付としてのもので、為信がこれを断ることはできなかった。しかし服部康成の働きは目覚ましいものだった。津軽勢は大垣城攻めの先陣を命じられ、康成は存分の働きを見せ、津軽勢は大垣城攻略に大きな功を上げた。康成はこの功により、家康から「康」の一字をもらい、長門守を受領したとされる。この、武将としての系譜も定かでない者が、ある日突然長門守を受領するということは、当時でも異例のことだったように思う。

服部と言えば、関ヶ原の戦いの裏側で存分な働きをした、服部半蔵正成がいる。正成は家康に仕え、伊賀同心を支配し隠密組として組織し、八千石を得ていた。この正成は関ヶ原の戦いの前、慶長元年(1596)に55歳で没し、その跡は、長男の服部正就が継ぎ、関ヶ原の戦いに至る。この服部正就の家督相続の時期は関ヶ原の前夜にあたり、服部一族が、間者として縦横に活躍した時期だ。服部康成もこの時期に歴史の陰で活躍していたと考えられる。それも徳川家康の比較的近い位置にいたと考えられる。服部康成は、「成」の通字があることと、家康が、その一字を与えたことから、服部正成の男子と考えるのが妥当だろう。

戦後、家康は、津軽に対しては2千石の加増に留めながらも、この服部康成の功を大きく評価し、これにより津軽家中では、否応無くこの服部康成を重く用いざるを得なくなった。実際、津軽為信はこの康成にその後1,000石を与え、奉行職として遇した。これにより徳川家康は暗黙のうちに、津軽に大きなかせをはめたことになる。

当初は服部康成の津軽家中での立場は微妙なものだったろう。しかし、慶長12年(1607)、長男信建が没し、それを追うように為信が没し、二代目は東軍についた信枚が継ぐことになり、康成はその後見人となった。しかし為信の娘婿の大河内建広が、関ヶ原の戦いの際には大阪城にあった長男信建の遺児の熊千代が相続すべきだと異議を申し立てた。

亡くなった為信と長男の信建は、関ヶ原の戦いの後はなにかといさかいになっていたが、石田方となった信建を後継とすることは出来なかったが、その子の熊千代の身が立つようにとは常に考えていたようだ。そのようなこともあり、大河内建広は、幕府に対し熊千代の藩主相続を訴え、本多正信に訴状を提出した。しかし結局それが通ることはなく、信牧が二代目藩主となり、服部康成が弘前藩筆頭家老となった。

津軽建広ら熊千代派はこれを良しとせず、大光寺城に立て籠もり抵抗した。しかし大光寺城は落城し、熊千代派も粛清された。信牧は、できるだけ穏便に済ませたいと考えていたようで、服部康成はその意を受けて、大河内建広を津軽追放とし、その後、建広は江戸城に医師として仕えた。熊千代は、信枚から合力金を受けながら江戸に住していたが、若くして死去したと言われている。

その後も、津軽家中の争いを良く鎮め、藩政期初期の津軽藩にあり、その基礎を築き、「無類の良臣」と讃えられるようになった。康成が服部家の中にあれば、恐らくはその名が歴史の上に現れることは無かっただろう。関ヶ原の謀略の中から、歴史の表に現れ、隠密から武将へと転換したことは、康成自身も不思議な運命を感じたことだろう。

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